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「発達障害は食事でよくなる」を屈辱的に感じたのは何故か?

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どうも。毎度おなじみ、望月志乃でヤンス。

本日はツイートのまとめで失礼いたしますでヤンス。

(ツイッターの仕様変更により読みづらい点もあるかと思いますが、何卒ご了承くださいでヤンス。)

途中で「ん?」と思っても、最後まで読んでくださるとありがたいでヤンす。

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児童精神科医が「食事で発達障害が治る」とする本を宣伝し話題に

この本の他にも、表紙に「発達障害が治らないと言われても、信じなくていいからね!」等と書いてある、同様の本を勧めてらっしゃいました。

しかし一方で、その児童精神科医は「子どものありのままを認めてあげましょう」ということも仰っている。

ここから先の話は、これらへ批判というより、このことをきっかけにして、「発達障害を良くしよう」や、「発達障害は治ります!」とする考え方について、ひとりの当事者として疑問に感じたことを書いていきたいと思います。

自分でも、何がこんなに不愉快なのか良くわからない

発達障害であることが、アイデンティティになってしまっている可能性も否定できない。

発達障害を否定されたところで、わたし自身が否定されたというわけではないはず。

見下されていると感じるのは、自分が劣等感を持っているということだ、という見方もできる。

ただ、どうにもピンと来ない。

発達障害であることが判明する前からずっと、周囲との違和感や、生きづらさを覚えつつも、「これが自分だ」と、何の疑問もなく生きてきた。

わたしは、悪い脳を持って生まれて来たのか。

この脳は、この思考は、この体は、人生は、第三者から「治してあげたい」と思われるようなものだったのか。

 

生まれ持ったものを「悪いもの」とされる屈辱感

「少しでも楽にしてあげたい」という、切実な親心。

誰も悪いことをしているとは思っていない。

「苦しむ我が子のために、とにかく何かをしてあげたい」という、もどかしさを持っているお母さんが沢山いて、そういう方には救いのある本になっているのだと思う。

ただ、いち当事者として思うのは、良かれと思った結果、生まれ持った特性を悪いもののように捉え、とても失礼な話になっているのではないかと。

「発達障害を良くしてあげたい」と考える方は、

第三者から、持って生まれたものを「少しでもマシにしてあげたい」と言われて、心から嬉しく思うのだろうか。

※ついカッとなって書いた。語気が荒いのは反省している。

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治したいと思っているのは、本人なのか、周囲なのか。

困っているのは、本人か、周囲か。

本人や周囲の困り感を、少しでも解消しようと活動する親を、批判するつもりはないからこそ、このギャップに、何とも言えない歯がゆさがある。

藁をも掴みたい親がキャッチしやすいキャッチコピー

「食事で、発達障害のこういう症状を、緩和できる可能性がある」というような表現なら、一説として受け入れたと思う。

体験談が元になっているようだが、そもそもこれらには、医学的に確かなエビデンスがあるのだろうか。

求心力のためわかりやすさのため、「発達障害がよくなる!」や「発達障害は治る!」というコピーをつけられたように、感じてしまう

苦しくてどうしようもなくて、藁をも掴みたい時、「○○すればいい!」というわかりやすい救いの手があったら、掴むよね。

末期がんの闘病中だった両親が、医学的にエビデンスの怪しい本を、すがるように読んでいるのを知った時の気持ちと、とても良く似ている。

救われたいよな。

たいへんだものな。

藁、掴みたいよな。

先行きが不透明で絶望的な未来より、はっきり「治る」と断言されていることの方が真実だと、期待したいよな。

その切実な願いを、否定する気にもなれない。

だからこそ、切ないんだ。

ありのままの自分自身でいることが、そこまで周囲に絶望を与え、心労や迷惑をかけてしまうというのが、何だかとても切ないんだ。

自分は、親にとって「障害者であってはならない」のだ。

食に振り回された子であり、母親である立場の視点

わたしは、母親でもあって。それも、かなり出来の悪い部類の母親であって。

子どもの困った症状ごと、苦しみをただ受け容れる度量や、冷静な人間性なんて、わたしにだってありはしない。

子育ては、とにかく理想と現実のギャップに苦しんでばかりだ。

子どもにしてあげたいこと、するべきではないこと。

とても「理想の母親」ではいられないけれど、それでも子どものために何とかしてあげたいと思うから、みんな悩むんだ。

「良かれと思って」の壁

みんな、良かれと思ってやっている。

侮辱なんてしているつもりはない。

受け取り方が悪い。

失礼だなんて感じずに、ただ謙虚に、感謝の気持ちを持っていればいい。

そう言われる。

それも一理ある。

良かれと思って施されたものが、仮に毒だったとしても、笑顔で飲み干さなければならないのだろうか。

善意で浮き彫りになる、他者との隔たり。

与える側が善意でも、受け取る側が望んでいない場合、うまくいかないもんだよね。

わたしはどうしても、「よくなる」「治せる」という表現が、当事者に対して無神経に感じて首をかしげてしまうけれど。

救われたい側と、救いたい側が、うまくマッチングしていて、心から納得しているのなら、なんにも問題ないのだろうね。

発達障害の先輩として、後輩にしてあげられることは何だろう

「血液型を言うように、自己紹介で当たり前に『ADHD型です』と言えるような社会にしたい」というのが、以前からの、わたしの夢。

当たり前にそこにいて、当たり前に受け容れられる、世界。

皮肉にも、カミングアウトさえしなければ問題なく、そんな風に一般社会に溶け込むことができる。

発達障害のラベルって、本当に何なんだろうか。

わたしのアイデンティティは、多分そこにはない。

わたしはきっと、自分自身を当たり前に受け容れたいだけなんだ。

コメント

  1. 最近は識者たちの常とう句として「治った」とか「よくなる」と安易かつ断定的な表現をよく目にします!
    すべてが嘘だとは思わないですが、例えば「こういうケースにこうすればこうなった。」というタイトルであれば、ちょっと関心が芽生えそうな気がするのですが、あまり断定的なことを言われると、目立たせたいのかな?と疑ってしまう今日この頃です。
    今回の記事を読んで、昨今の風潮に対して望月さんに同感だなと思いました。

  2. 全く同感です。
    発達障害は悪いことみたいな表現だと僕も感じます。
    治すことが必要な存在じゃない。
    そんな存在はない。
    社会が定型さんが圧倒的に多いから定型さんにとって異質と感じるかもしれないけど、ADHDの特性から人とつながるきっかけができたり、うれしい体験や学びがあったりする。
    当事者の気持ち、考えてほしいな。

  3. 40代後半でやっと発達障害だとわかりました。
    もっと若いときに自分の特性を知っていれば
    自分に合ったやり方、努力の仕方が分かったのに・・・と悔しいです。
    いわゆる機能不全家族で育ったのですが、
    その家庭が当たり前すぎて、今の今まで苦しみの根底にあるとは、思いませんでした。
    子供もあきらかに発達障害の傾向があります。
    でも自分の凸凹が基準なので、今まで気付いてあげれませんでした。
    もうすぐ社会に出る年齢です。検査を勧めるか
    すごく悩んでいます。
    発達障害はアイデンティティでは無いと思います、
    そこから得るものがアイデンティティの1つを構成してるだけだと思います。
    精神疾患や発達障害は目に見えにくいものなので、
    商売につなげたいのが、丸見えの本を見つけるたび
    、違和感と寂しさを感じます。

  4. 食事でよくなるを見た時に、また母親や親に責任(食事管理)を押しつけるのかって思いました。
    ADHDになるかならないかは運で、ぶっちゃけ遺伝かどうかすらも怪しい気がしている。運。
    先輩に望む事は、仕事のライフハック。いつか発達障害で○○の仕事に就いている人の掲示板とか出来て欲しい。職種ごとにわけて。
    就労のやり方の相談する場が欲しい。
    本はあるけど、後手で仕事のライフハックにまで到っていない(細部はフォロー出来ない)
    あと、努力したら置いて貰える職場を作り出したい。

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