どうも。志乃です。
いま、幼児虐待のニュースが話題ですね。
詳細は伏せますが、事実が明らかになるにつれ、本当に心が痛みます…。
どうしてそんなことになってしまったのか。
救う手立てはなかったのか。
そんなことをつい考えてしまいますが、考えれば考えるほど、落ち込んできてしまいますね。
何の救いにもならないかもしれませんが、私の経験を書かせていただきたいと思います。
「私は虐待しているのでは?」と気に病んでノイローゼになった
1〜3歳頃になると、自我が芽生え、自由に動き回るため、危険度が増します。
「親がちゃんとみていればいい」というのはもっともですが、子育て未経験者が思っている以上に、大変なことです。
また、親が子の自由を奪い、無理に行動をコントロールしようとする行為にも、それはそれで問題がありますよね。それが行きすぎると、しつけではなく、虐待になってしまうわけです。でも世間は、「親がしっかりコントロールしろ」と、厳しいしつけを要求する。
「しつけ」と「虐待」の境界線とは?自信がなくなってくる
「自分があまり幸福な幼少時代ではなかったから、子どもにはそんな思いをさせたくない」という思いから、幼児発達心理学や、育児本などを読み、「理想的な接し方」について、勉強もしていました。子育て講座にも出向きましたし、保健師さんにも積極的に相談しました。
でも、そうやって勉強すればするほど、「本来なら、こんなことするべきでないのに」といった具合に、「知識はあるのに、理想通りにできない自分」に焦り、追い詰められていく。
そして当時、イヤイヤ期で一番手のかかる時期に、引っ越したばかりで近所に知り合いもなく、おまけに旦那は長期出張の連続。
月に2日ほどしか帰ってこない旦那を、自宅に引きこもりながら、ひたすらワンオペで待ち続けるという生活が続き、ずーーーーっと2人きりという環境もよくなかった。
声を荒げたくなんかないのに、つい怒鳴ってしまう。
こんなことするべきでないってわかっているのに、辛く当たってしまう。
何を言ってもイヤ、何をやってもイヤ、じゃあ自由にしていいよと言ってもイヤ。
話し相手は、いつかけてもなかなかつながらない「いのちの電話」だけ。
自然とネットに救いを求めることが多くなり、すぐスマホに逃げてしまうように。
スマホ依存症だという自覚はありまして、早い段階から専門家に相談していましたが、唯一の心の拠り所だったのもあって、スマホいじりがやめられなかった。
癇癪を起こして、何をどうやっても何時間でも泣きわめく娘に耐えられなくなり、別室に逃げてスマホを触るたび、「わたしは、ネグレクトをしてるんじゃないか?」という思いが強くなっていきました。
児童相談所に電話したら逆に褒められた
思いつめた末に、児童相談所に自ら電話をかけたこともあります。
「子育てが本当につらくて、可愛いと思えない時がある」
「自分はネグレクトをしていると思う」
「虐待をしていると思う」と電話口で現状を伝えると、
逆に「お母さんは、すごく頑張っていますよ。」と褒められてしまいました。
でもそれも、「我が家の惨状をちゃんとわかっていないから、そんなことを言うんだ」と、まったく信じていませんでした。
その後、いろんな専門家に相談しましたが、みんな同じことを言う。
「お母さんは、とってもよく頑張ってますよ。」
「そんなわけありません。私、全然ダメなんです!発達障害もあって…!」
何度もそう繰り返しましたが、どこに行っても「そんなことないですよ、頑張っているじゃないですか、自信持って」と言われるばかりで、あまり真剣に取り合って貰えませんでした。
こちらとしては、それが余計に不安になるわけですね。
「ちゃんと可愛がってあげられなかった」という記憶が鮮明に残った
もっと遊んであげればよかった。
もっと優しくしてあげればよかった。
もっと可愛がってあげればよかった。
1〜3歳の時期は、可愛い盛りだったのに。
何年も虐待一歩手前のことをしてしまっていた。
限界だなんて思わずに、もっと愛してあげればよかった。
そんな後悔と記憶ばかりが残っていました。
「容量がいっぱいです」という通知が届いて、パソコンを開くと…
そんな娘も今では6歳になり、いつものように小学校に行っている間にPCをつけて、メールチェックをしていると。
「Googleストレージの容量がいっぱいでこれ以上は保存できない」という通知が届きました。
(…え?何がそんなに詰まってんのよ)と、Googleドライブにアクセスしてみると…。
出るわ出るわ、娘が笑顔でうつっている動画の数々。
「そう、よかったね。」
「そっちは危ないよ!」
「寒くない?大丈夫?」
「すごいすごい!」
「可愛いね〜」
たどたどしく、絵本が読めるようになった日。
はじめての公園で、はしゃいでいた日。
お弁当を手づかみでほおばる日。
一つ一つを開いてみると、そのすべてに優しく語りかける私の音声が入っていました。
泣いた。
人の記憶って、適当なものですね。
「公園に行くのが辛くて、あんまり連れていけなかった」なんて思っていたのに、公園でのムービーがやたらある。連れてってんじゃん。わたし、連れてってんじゃん。
自分で思っていたよりずっと、娘のことを愛していたようで。
こんな調子でいたらそりゃ「あなたは虐待なんてしてないよ」とみんな言うわ、って感じ。
考えてみたら「お願いです、どうか娘を、ダメな私から助けてやってください!」と必死に懇願して回っているわけですから、その時点で大切に思っていないわけがなかったんですよね。
今回の虐待事件の親は、どうだったのだろう
手を下した父親が悪いのは言うまでもないとして。
こんなんじゃダメだと思いつつ、そうもいかない現実に追い立てられて、自力で解決する力がなかったのだろうか。
助けたいと思いつつ、助けられなかったのだろうか。
そこに一滴の愛情もなかったのだろうか。
いちばん大変な2〜3歳児期を、なんとか死なせずに乗り切ってきたはずの、お母さん。
「同じ母親として、許せない」と批判するべきところなのはわかっているけれど、ほんの少しだけでも愛はあったと、信じたい。
被害にあった子にも、心から愛されていた瞬間があったと信じたい。
そうじゃなかったら、あんまりじゃないか。
これからも自問自答を続けていく
「私は虐待をしているのでは」と自分を厳しく見つめることこそが、わたしの場合、娘を大切に思っていることの証明だった。
やり方は歪んでいたけれど、私なりに娘を守ろうとしていたんだと思う。
「ちゃんと愛せているかどうか」なんて、自分にはわからない。
他人に大丈夫だと言われたって、信じられない。
だからこそ問い続けるし、それがきっと、娘を私の加害性から守ることにつながる。
今はそんな風に思います。
おわりに
小学校から帰ってきた娘を膝に載せて鑑賞会をしていたら、可愛すぎて終わらなくなってしまったw
キャーキャー言いながら「可愛いね〜」と言い合う。ムービーの中でも「可愛い〜」を連呼。いいものかもしれない— 望月志乃🐈誤ブロック多発 (@shinoegg) June 7, 2018
最後になりましたが、個人情報が特定されない範囲で公表できる動画がありましたので、それを載せて終わりにします。
ノンタンを朗読する娘
虐待に苦しむ全ての子どもに、たくさんの愛情が降りますように。
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コメント
わかります。というか、私はホントに虐待してたと思います。
でも、今はもう子供達も成長して(成人含め3人)、とってもいい子に育ちました。
子育てって正解はないから、悩みは尽きません(未だに)