どうも。志乃です。
先日の記事に多くの反響をいただきまして、ありがとうございました。
今回はその続きです。
表現したいという欲は、承認欲求と密接な関係がある
うちの、自己肯定感の高い旦那を見ていると、そんなふうに感じるわけです。
前回の記事でも触れましたが、彼は「自分は自分だ、他人に認めてもらう必要はない」という感覚を当たり前に持っている(=自己肯定感が高い)ので、「分かって欲しい」という気持ちが薄いようです。
他人に「何かを伝えたい!」という欲も、あまりなさそう。
お察しの通り、たぶんまあ…面倒くさいんでしょうが、必要性を感じないのもあるのかなあと。
.…。
冗談はさておき。
気持ちが落ち着くと創作意欲がどんどんなくなる問題
前回の記事に対して「自己肯定感が低い人の文章ではない」とブコメでご指摘をいただきましてね。
確かに、この「自他の境界線がハッキリした、自己肯定感の高い夫」と、10年近く一緒に暮らしてきた結果、わたし自身も変わりました。
「俺は俺でいいし、あなたはあなたでいい。このラインからこっちはOKだけど、こっからは引き受けられない。」という態度を、長期間に渡って貫き通すことが、境界性パーソナリティー障害の方と接する際にもポイントになります。
まさしくその治療を、お互い無意識のうちに行い続けてきた効果が、今になって表れ始めている実感があります。すごい。
ただ、そんな調子で精神状態が安定してきた結果、昔ほどの「成功したい!」とか「目立ちたい!」というハングリー精神も湧かなくなってきており、それに伴って、創作意欲も減ったという事態に。
「わたしはわたし、旦那は旦那。」の弊害
何事も、良い面もあれば、そうではない面もあるもので。
わたしの悩み事は、「夫婦喧嘩ができない。」ことだったりします。
家庭内で何か困ったことがあったり、相手とのことで何か不満や問題意識を持ったとしても、
『…まぁ、でも、それが旦那(志乃)だし。』
と、お互いの多様性を認め過ぎてしまい、困ったことに
- 対話があんまり生まれない。
- 問題意識を共有できない。
- お互いがお互いを甘やかす。
- 問題解決がいつまでもなされない。
家庭内が平和なのはいいのですが、波風が立たない反面、「発展のためのアクション」も生まないんですよねえ…。
わたし自身は、四六時中、両親の夫婦ケンカを見せつけられて育ったもので、幼心に「絶対に自分はこうはならない!絶ッッッ対に、ずっと仲良くできる旦那さんと結婚する!!!」と固く心に誓ったわけですが、こうして現実になってみると、夫婦の摩擦ってそう悪いことばかりでもないんだなと、しみじみ思います。
もちろん、程度の問題はありますけどね。
「怒り」や「哀しみ」は表現を生み、コミュニケーションを生む
他人はどこまで行っても他人で、永遠に一つにはなれない。
だから孤独があって、コミュニケーションが生まれる。
エンターテイメントはきっと、表現者による「伝えたい、訴えたい、知ってほしい」というコミュニケーション手段。
承認欲求があるから、つながりや、愛情や、作品や、その他色んなものが成り立っている。
孤独を胸に持っていない人間なんていないのだし、そう考えると、「伝えたい」「分かってほしい」という自分の気持ちを、恥ずかしく思ったり、悪いものだと思うことなんて、ないのかもしれない。
承認欲求や自己陶酔を揶揄するネットの風潮は、これから先、何かを阻害することはあっても、生み出すことはないのだろう。
気持ち、伝えていこうぜ
「人間は感情で動く生き物」だと言われます。
ネガティブな意味合いで使われることが多いですが、あながちそれだけではないのかも。誰かの感情や、そこから発する言葉に傷つくことも多いけれど、それで生まれていくものがきっと、確かにある。
ピリピリした人も、のんびりした人も、どんな人もこの社会には必要で、そうして全体のバランスが取れているんだと思うと、「社会ってすごいな!?」とよく思います。
だからきっと、あなたはあなたのままでいい。
わたしも、わたしのままでいい。
さて。
そんなわけで、我が家では。
「まあ、お互い大変だよね。」で思考停止して、荒れ放題のままの部屋を。
ケツを叩き合いながら、これから二人で掃除したいと思います。
現場からは、以上です。
コメント