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【自分の栄養に】一方的に悪意を向けられた時の考え方。悪口は利用できるのか?

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どうも。志乃です。

Twitterで「悪口」について呟いていたことについて、心理学を交えながら、以下にまとめておきます。

読みづらい面もあるかと思いますが、よろしければお付き合いください。

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人は色んな側面をもっている 

ペルソナシリーズ – Wikipedia ゲームソフトの名前です。

ネットに書かれたことが真実であると誤認しやすい

自己探求・自己開示の手がかり「ジョハリの窓」

「自分」のことは、自分でも分かっていないことが多い。

そして、「自分にも他人にも分かっている自分」、「自分にしか分からない自分」もあれば、「自分にも他人にも分かっていない自分」もある。

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自己には「公開された自己」(open self) と「隠された自己」(hidden self) があると共に、「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」(blind self) や「誰からもまだ知られていない自己」(unknown self) もあると考えられる。
これらを障子の格子のように図解し、格子をその四角の枠に固定されていないものとして、格子のみ移動しながら考えると、誰からもまだ知られていない自己が小さくなれば、それはフィードバックされているという事であるし、公開された自己が大きくなれば、それは自己開示が進んでいるととる事が出来るだろう。
コミュニケーション心理学や健康心理学などでは、よく話題になるモデルである。

引用元:ジョハリの窓 – Wikipedia

簡単に言うと、つまりこの「開放の窓」の領域を広げ、他を狭めることで、自己探求や自己開示が進む(=成長できる?)ということ。

 

「盲点の窓」を小さくするには、他者の意見を取り入れることが必要だし、

「秘密の窓」を小さくするということは、心を開くということだ。

「未知の窓」を小さくすることで、自分でも知らなかった発見と刺激があるかもしれない。

当然、最初から「開放の窓」だけが全開という人も、なかなかいないだろう。

 

わたしは度々、他者からこの「盲点の窓」について、「気づけよwww」と揶揄されたり、批判されることがある。

バカにして笑ってくれても構わないから、その盲点の窓を小さくするために、詳しく話を聞いてみたいと、つい思ってしまうのだ。

アンチの意見を参考にした話
...

 

盲点の窓は「自分からは見えない」

社会的常識<自分の考え になる時もある。
「だらしがなくて協調性に欠け、非常識」なところもある。

そして今は、それらを「だけど、それが自分だ」と受け入れる訓練中。

自分を批判をしてくる人間がいたとして、それは必ずしも「悪人」というわけではなく、おそらく「自分と違った価値観の持ち主」だというだけ。それが、より良い人生を歩むために知る必要があることなら、聞く耳を持つ価値はある。

聞くに値しないと感じる批判(というか妄想による嫌がらせ)も多くあるが、それは少しでも聞いて、検討してみないと分からないことだと思う。

悪口と向き合うことは、本当に意味のないことなのか?

内容を簡単に説明すると、「お前なんか大したことないくせに調子に乗るな」というものでした。

私がいかに「大したことないか」という説明が並んでいて、「お前はそれに、気づいていないから恥ずかしい奴だ」と、自覚を促すようなもの。勿論、第一の目的はそこではなくて、「盲点の窓を指摘することで、傷つけたい」という意志を強く感じるものでした。

ただ、私にとってそれは「盲点の窓」の範囲ではなく「開放の窓」の領域だったり(心配しなくても誰から見ても大したことない奴ですよ)、全く身に覚えがないことだったので、純粋に「…何でこの人はこんな風に思ったんだろう?」という疑問が膨らみました。考えられる原因としては、「自覚がなさそうに見えた」か、「調子にのっているように見えた」か、「私に謙虚さが足りなかった」か、どれかでしょうか。

 

お調子者であることは否めないし、あんまり否むつもりもない。イエーイ。

でも確かに、調子にのり過ぎる時もある。

 

今後に活かすために学習したい

 

「そう思った根拠」を具体的に教えてほしい。

 

その悪意を私にぶつけて、どうしたかったのか。

その目的は達成できたのか。

達成できていたとして、そんな自分についてどう思うのか。

私にその悪意をぶつけてもよいと思ったのは何故か。

その「大したことはない人間」の影響力を無視できず、足を引っ張ろうとするのは何故か。

会ったこともない人間(たぶん)を、そこまで憎み、バカにする必要性を感じるのは何故か。

わたしがそれを読んで、傷つけばいいと思ったのは何故か。

無抵抗(ブログのネタにしちまったけど)の人間に向かって攻撃することについてどう思うか。

 

何より、「自分がされて嫌なことは、他人にはしない」が前提でないのか。

 

それならそれで仕方がない。

 

 

 

「私に嫉妬している」で片付けるのは勿体ないのではないか

そう「見える」というだけで、「そうである」と断定したり、されたりする危険性。それこそ偏見ではないのか。

ツイッターなんて特に、ブロックすれば終わりなのに、こまめにチェックしては、気分を害しているそうです。あの、それは、わたしの責任なんでしょうかね…?

 

「身に覚えのない悪口」は盲点の窓?それとも、相手の妄想?

 思うに、「印象」も事実のひとつで、自分では事実無根だと感じたとしても、何か原因があったのではないかと思うんですよね。ただ、大事なのはそれを受けて、どう思うかなんだろうなって。

最初に触れたペルソナの話に戻りますが、「どの人の目にうつる自分も、自分の一面でしかない」と捉えると、ひとつの悪口が真実で、それが全てだとは思わなくなる。

例えば、「放課後にタレント活動をしている美少女」が、学校では「ブス」と呼ばれてイジメられているなんてことはザラにある。本当にブスかというと、そういうわけではなくて、言っている人の印象であるというだけなんですよね。

学校という狭いコミュニティの中にいると、そこで言われたことが自分の全てだと自認してしまうけれど、色んな人と出会って話せば話すほど、印象は千差万別であり、色んな人がいろんなことを言うことが分かる。

そのことから、だんだん自分の輪郭や、「傾向」がボンヤリと見えてくる。

参考にできることはして、ただの悪意だったらスルーして、自分の輪郭を知る手がかりになればいい。

悪口は魅力的

 自分を傷つける意見でも取り入れて成長したいという気持ちは、自傷行為にも似ている。「今のままの自分ではいけない」という自己肯定感の低さから来ている気もする。

自分を大切に思ってくれている人は、自分の至らない点を注意する時も、配慮と愛情を持って伝えてくれる。それでは足りないと感じるのは、何故だろう。

自己肯定感が低いせいか、褒め言葉はすんなり入らず、悪口が魅力的にうつる。

自分に向けられた、罵詈雑言のゴミ溜めの山に、自ら突っ込んで言って、宝探しをしている気分。ただの八つ当たりだったり、ストレスのはけ口にされているだけだったり、意味のない理不尽な悪意だったりと、徒労に終わることも多いし、何より、本人と対話ができないことには、どこまでいっても「憶測」で、虚しさもある。

そして悲しいことに、おそらく相手はそこまで深く考えちゃいない。

価値観が違うもの同士だと、共感を求めたり、理解を求められても、「考え方の前提」が違うので、平行線な場合も多い。

これは、相手を肯定する言葉でもある。

多様性を認めるって、きっとこういうこと

 

 「まあ、いっか」は強さと優しさの産物

悪意を向けられた時、好意の有り難みを感じることが出来る

 

人間は「何かに心から感謝した時」に、幸福を感じる生き物なんだそうです。

「ごめんなさい」と自己嫌悪したり、悪口に苦しんだりしても、最終的に「ありがとう」と「まあいっか」に辿り着くなら、それだけ幸せに一歩近づけるのかもしれない。

 

「大事にしたい人」を大事にしたい。

 

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コメント

  1. とても参考になった記事。私も同じような所で堂々巡りしてました。同じ気持ちの人がいる、と思うだけで励まされる。ごめんなさい、よりまいっか、ありがとう、を増やしていきます。本当にありがとう。

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