私は、感情のままに文章を書くことが、あまり好きではありません。
怒りを爆発させること自体、出来るだけ避けたいと思っていて、常に冷静でいたい気持ちが強いです。
でも「怒り」にはエネルギーがあり、ひとを動かす力がある。今回はそんなお話。
文章に感情をのせたくない
感情が薄いかというと、決してそういうわけでもなくて、むしろ感情的な人間だからこそ、文章に感情が乗らないよう、意識して抑えないといけないと思っています。
油断すると、すぐ乗ります。
引くぐらいに乗りまくります。
別に乗ったっていいんでしょうし、こうなるに至った経緯もまあ、それなりにあるのですが、今回の話はあまり関係がないので割愛します。
感情がのった文章には力がある
過去に一度だけ、記事に「怒り」を、思いっきり載せたことがありました。
上記のグラフは、このブログの、全期間のアクセス数を表したグラフです。
結果は御覧の通り。ぶっちぎりです。
他の記事も、(自分でいうのも何ですが)そこそこアクセス数があったりするのにも関わらず、この結果。
めっちゃ感情が入ってますね。うわあ。
書いたことに対して後悔はないですし、批判も甘んじて受けるつもりでいたけれど、当時、「もうこういう記事は書きたくない」と思った覚えがあります。
ただ、話題になった「日本〇ね」もそうですが、「怒り」は、時に爆発的に他人を巻き込む力を持つことがあるんですよね。
怒りたくない
怒るということは、自分以外の誰かに攻撃性を向けているということで、出来ることならそんなことはしたくない。
背景に何かがあるかもしれないし、事情や理由があるのかもしれない。
それらを鑑みても、どうしても許せないこともある。
もちろん、悪いことばかりじゃなくて、何かを動かすことだって出来るかもしれない。
何かを変えたい、動かしたいと思った時、「怒り」は力を発揮する。
うつ病回復期に、ずっと抑え込んでいた怒りを爆発させたことで、状況が変わったこともありました。
でも、怒りたくない。
怒りは、優しさの対極にあるような気がする
どんな大義名分があったって、力ずくで要求を通そうとしたり、誰かを追い詰めたり、傷つけたりするようなことは避けたいと思っています。
でも一方で、怒りが湧くのは、期待の裏返しだったりもして。
最初から期待しなければ、怒りが湧くことなんてないし、いくらでも優しく出来る。
怒るのは、その人を思ってのことだったり、その人に期待してのことだったり。
怒りでしか、本音を表現できない時もあって。
きっと本当は良い悪いではないはずなのに、私は感情的になることのネガティブなイメージが強すぎて、誰かに怒りをぶつけることが怖いのかもしれない。
その怖さだって、「嫌われたくない」とか「ナメられたくない」とかいう「よく思われたい」気持ちからではないと否定はできない。
でもそれだけじゃなくて、
何か、怒りを向けられてきたことに対しての、許せない気持ちもはらんでいる。
力は力で、感情は感情で、善悪ではなくて、使い方次第
「最も避けたい」「避けるべきだ」と思っていることが一番、力を持ち、よくも悪くも多くの人を巻き込んだという、この皮肉な現状。
でもそれでも、誰かを傷つけていいことにはならないとも思う。
一方で、ジョゼフ・マーフィの言葉に「恐れていることこそ、やってみろ」というものがあります。
私はどうしてここまで、怒りをあらわにすることや、文章に感情をのせることに抵抗があるのか。
原因と思われる出来事は色々と思い当たりますが、たぶん重要なのは過去ではないんですよね。
人を動かすのはいつだって理屈ではなくて、感情。
人を動かしたかったら、感情に訴えるのが一番ラクで、簡単。
いくらでも感情をのせていいとなったら、悲壮感や被害妄想、怒りエッセンスたっぷりのブログになりそうだ。
そんなものを読ませたいわけでもない。
わたしはいったい、何のために書くんでしょうね。
楽しい記事を書きたいと思いながら、感情の赴くままに書くこともやめられない。
私の声に、記事に、何かほんの少しでも力があるとして、出来ることはなんなのか。
やるべきことはどういうことなのか。
何より、 どうしていきたいのか。
できること、できないこと。
求められていること、求められていないこと。
やりたいこと、やらないほうがいいこと。
やりたくないこと、やらずにはいられないこと。
無理なく、たのしく、自分らしく、続けていけることが最良で。
それが何なのか、最近、よく考えています。
現場からは以上です。
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