誰だって拒絶されるのは怖いし、誰だってありのままの自分を受け容れて欲しい。
誰にだって背景はあるし、誰にだって苦しみがある。
近くにいるだけで苦痛を感じる相手なら、離れた方がお互いのためだ。
苦手なタイプと距離を取るのは悪いことじゃない
遅刻をしたり、だらしなく感じる相手が許せないタイプの人は、ADHDと付き合わない方がいい。
理屈よりも感情に寄り添うことを望み、共感を大事にするタイプの人は、ASDと付き合わない方がいい。
「理解してあげなきゃ」と無理をして近くにいられるよりも、離れた方が、お互いに負担が少なくて済む。
歩み寄りができるのなら、それに越したことはないが、「理解してあげたい」と思った側が、ボロボロになってしまうケースを、わたしは知っている。
パーソナリティ障害を抱えた母親との関係
理解したい、理解してあげたい、親孝行をしたい。
そう思えば思うほど、エネルギーを奪われた。
尽くしても尽くしても、死の間際まで侮辱の言葉を浴びせられていた父。
母の中ではいつでも自分は「不幸な被害者」の立場であり、記憶や事実を捻じ曲げてまで、自己愛を優先している。
母には母で、そうなるだけの歴史や、苦労や、トラウマなどの背景がある。
母は母で、子どものことを理解したいのに、無意識レベルで記憶を改ざんしてしまい、それを心の底から信じているので、わたしの言っていることが分からない。
自分ではどうしようもないことで、大切にしたい相手を理解できない。
お互いに、いくら相手を理解しようとしても、どんなに尽くしても、どこまでも平行線で、一方通行で。
お互いに、「相手に変わって欲しい」と願っても、改善される見込みはない。
付き合いを選ぶ権利は誰にでもある。発達障害者にも。
そんな風に、近づくほどに傷つけ合ってしまう関係もある。
「相性が悪い相手と、お互いに距離を取る」という、人間関係において当たり前の処置が、どちらか一方が発達障害者だからという理由で、自由に離れることを禁止されるというのも、おかしな話。
傷つけ合うしかできないのなら、離れた方がずっといいじゃないかと思う。
世の中には、人に待たされても何とも思わず、1人で時間を潰すことが得意な人もいる。
感情やしがらみを抜きにして、理論を重視すれば、スムーズに物事が運ぶと考えている人もいる。
そういう“気の合うコミュティ”を、わたしたちは自分の意思で選ぶことができる。
自分でもどうしようもないことで相手を傷つける辛さ
傷つける方だって、傷つけたくてやってるわけではないことも多い。
傷つけられた方だって、傷つけられたくて付き合っているわけではない。
賛否両論あるだろうが、
「自分でもどうしようもないことで、無意識のうちに相手を傷つけてしまう」という点では、パーソナリティ障害を抱えた母との関係と、発達障害を抱えた人間を相手にする関係は、同じなのではないかと思った。
多様性を理解してもらい、ありのままの自分自身を許容することを、「誰に対しても求める」というのなら、パーソナリティ障害の母のことを理解し、許容しなければ辻褄が合わない。
わたしは自分を守るために、母を許容しないと決めた。
自分は他人のことを許容できないのに、自分は他人に許容されたいと考えるのは、本当に都合のいい話で、傲慢だ。
誰にだって、人を選ぶ権利がある。
「みんな私を理解してよ!」と駄々をこねても仕方がない。
わたしの考える「多様性を認める」ということ
多様性を認めるために、重要になってくるのは「距離をとること」。多様性を認めるというと、自分の領域内に全て受け入れなければならないと考えがち。でも多分、そういうことではなくて、自分の領域も、相手の領域も、侵害しないし、されないということだと思う。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) May 11, 2016
「こうして欲しい」という相手からの要求に、自分がどうしても応えられないことに、罪悪感や、自己嫌悪を感じることも多い。
感覚が違う、考え方が違う。生き方が違う。
そんな中で付き合いを続けるために、何を楔にするのか。
家族だったり、恋愛だったり、趣味の仲間だったり、クラスメイトだったり。
そのつながりが足枷にしかならない時、自由になったっていいんじゃないかしら。
人が離れるのが怖いのは、見捨てられるのが怖いから
成人発達障害者や、精神に障害を持った人間の多くが、幼少期に深い心の傷をおっている。
自己肯定感が低く、他人の評価を気にしてしまう。
呆れられるのが怖かったり、人から拒絶されることを極度に恐れる。
それらも自然な心の動きで、不可抗力だ。
どうにもならない心の衝動。どうにもならない他人との溝。
見捨てられるのが怖いから、依存的になったり、攻撃的になったり。
とにかく自己肯定感の低い私たちの心は忙しい。
健全な人間関係を築くには1人でも大丈夫だと思うことから
劣等感が強いから、人に拒絶される不安に苛まれる。
相手には相手の意思があり、相手の自由を許すことが大切。
定型発達者には、私たち発達障害者を拒絶する権利がある。
あなたはそれに対して、見捨てないでくれとすがったり、自分がどれだけ劣っているかを見せて同情を誘ったり、高圧的に認めさせようとしたり、依存することを望むだろうか。
心の奥深くに潜む、本当の問題点は、相手が「理解してくれない苦しみ」ではなく、自分自身の強い劣等感だ。
だけど、わたしたちは、何も卑屈になることはない。
むしろ、卑屈になればなるほど、健全な人間関係から遠のいてしまう。
健全な人間関係のために、必要なものがあるとすれば、
おかげ様という「謙虚さ」であったり、
お互い様という「ギブアンドテイク」な関係性であったり、
支えてもらったことへの「感謝の気持ち」であって、
相手に「ありのままを許容しろ」と望むのは、違う気がしている。
わたしは発達障害が原因で人が離れても責めないよ
わたしは、「通じない」相手に、いつまでも一方通行なまま搾取される苦しみを知っている。
「私が離れたら、母はどうなってしまうんだろう」とずっと気に病んでいたが、それは母のことを「1人では何もできない人間」と、見做していたということでもある。
放っておいても大丈夫だと、時には信じて突き放すことも大切なのかもしれない。
あなたの「離れられない誰か」だって、あなたが苦しむことを、本当は望んでいるわけではないかもしれない。
離れた方がいい関係性なんて、世の中にはたくさんある。
見捨てるわけにはいかない関係性も、世の中にはたくさんある。
いろんな意見、いろんな立場、いろんな都合があるだろうけども。
わたしは、誰かが発達障害を理由にわたしから離れても、責めないよ。
こっちはこっちで、気の合う者同士で楽しくやっていけばいい。
誰もが付き合う人間を、自由に選べたらいいのにね。
ではまた。
コメント
望月さん、失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、お母様のこと、大変でしたね。
私も母がパーソナリティ障害です。同居の姉家族や父は、母の自己愛に巻き込まれ、大変でした。私は末っ子長男でしたが家を出てしまいました。
適度な距離って、ほんと大切だと思います。