どうも、志乃です。
取り急ぎ、ツイートのまとめです。
タイトルで誤解のないよう、最初に書いておくと「苦労アピール、カッコ悪い」という話ではないので、悪しからず。
「どこかの誰かに分かってもらう」必要って、あるんだろうか。なんてことを考えていた。当事者の苦しみは、同じ当事者間でも違ったり、理解しあえなかったりする中で、「理解する気がない」層に向けて伝え続ける意義はあるんだろうか
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
自己肯定感さえ、しっかり持っていれば、他人からの承認なんて必要ないんだよなー
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
「ADHDの苦労を、世の中に知ってほしい」という欲があまり私になくて、「ADHDだけども胸を張って生きていこう」という気持ち。おそらく求められているのは前者であり、苦労話。うーん。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
ライフハックのシェアって言っても大したことはしてないしなあ…
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
楽しく愉快に穏やかに、自分らしく生きていきたい…。コンテンツとして生きていない。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
「志乃」として求められているもの(需要)と、供給できるものと、実際のズレを感じる。ただただ、1人のちゃらんぽらんな母として、育児・生活環境を整えたい気持ちが高まっている。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
繰り返し書いてきた「ADHDにも色んなタイプがいる。属性でなく、一人一人を見てほしい」ということすら理解が広まらないし、「代表者」や「代弁者」のように振る舞うことを要求される矛盾。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
みんなが同じ方向を向かなきゃならないなんてこともない
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
苦手なこと、できてないこと、それらを公表することは出来るけど、「ADHDだから仕方ないんで〜す」と読み取られるのが容易に想像できるし、そういうことが言いたいわけでもないし。なにより、苦労話は本当に書いてて面白くない。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
誰のために、何のために書くのか。やりたいことは何なのか。どんな風に生きたいのか。それらを突き詰めて考えていくと、今やっていることが、違和感。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
どこまで行っても、「他人の苦しみの代弁」は出来ないし、一人一人が自分の苦しみを、大切な人に伝えられるようになればいい。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
結局、わたしがわたしらしくのびのび生きようと思ったら、この「志乃」を捨てて、ADHDであることも隠して、誰も知らないところで、リスタートした方がいいんですよ。でも、この状況自体に疑問。そんなのおかしいよなあ。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
「障害者は、いつも不幸そうで、いつも清廉潔白な、人格者じゃないといけないのか」。繰り返し話題になることだけど、ほんとこれ。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
失敗したら反省して、繰り返さないように気をつけて、笑い話にできるなら思いっきり笑い飛ばして、ニコニコしながら生きていきたい。それだと困る人もいるみたいだけど。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年4月13日
同じ障害を抱えて、今まさに強い苦しみの中にある人は、周りに「いかに自分が大変な状況に置かれているか」理解してもらう必要があると思う。
それ自体を否定したいわけではなくて、むしろ大切なことだと思っている。そうすることで、支援の手が差し伸べられることもあるだろうし、理解が深まることにもつながる。
一方で、私のように「当たり前のこと」として、「苦労もあるけど、何とか生きて来れたし、これからもきっと何とかなる」と、楽観しながら生きていこうとする人間もいる。
懸念しているのは、そういう生き方をする上で「いかに大変かを周りにまず知ってもらいたい人たち」の妨害になってしまう可能性である。
「へえ、困ってないんだ、楽しく生きているんだ。じゃあ、別にいいじゃん?だから何?どうして欲しいの?」という感想をもらったこともある。
「不幸」でないと、興味を持ってもらえないのだろうか。
「苦しみ」からでしか、理解を得られないのだろうか。
発達障害に限らず、育児に関連する記事を書いた時、「代弁」したことに対する感謝の御言葉をいただくことが多かった。
日本全体で、育児環境が似たような状況にあり、母親が同じような気持ちを抱えやすい育児と比べ、発達障害の共感を得ることは、本当に難しい。
抱えている問題もそれぞれ違うし、状況やステージの違いもある。わたしは、わたしの体験したことや感じたことを書くことは出来るが、すべての同じ悩みを持つ人の代表者になれるわけでも、代弁できるわけでもない。
育児や、大人の発達障害問題に限らず、現代社会で共通しているのは「みんな苦労しながら、頑張って生きている」ということ。それが大前提になっていて、たまに、とても息苦しく感じることがある。
本当は苦労アピール合戦なんぞしなくても、お互いがお互いの状況を慮り、「目には見えない背景がある」と理解しあえば、それで済む話なんじゃなかろうか。
私は未熟な人間だけども、それは発達障害者だからではなく、「人間だから」だという、シンプルな生き方がしたい。
現場からは、以上です。
コメント
発達障害、ADHDって、なんでしょうね。
全ての面で「平均程度かそれ以上の能力がある」人なんて本当はすごく少なくて、ほとんどの人は能力が凸凹構成のはずですよね。
「勉強はすごく得意だけど物忘れがすごく激しくて忘れ物を何度も取りに行く人」とか、「運動は何をやらせてもうまいけど時間を全く守れない人」とか、たぶん生物としては全然普通の範囲だし、住む国によっては何の問題もなく暮らしていけるんですよ。要は、社会で許容したくない「特徴」に線を引いて、便宜的に「症状」って呼んでるだけで。
世の中にはそういう線引きによって救われる人もたくさんいるし、そういう人たちのためにADHDっていう枠組みはもちろんあっていいと思うんですけど、志乃さんにとってはいかがですか?志乃さんにとっても、本当に必要な単語なんでしょうか。かえって縛られてしまっているのでなければいいのですが。
ADHDや発達障害って、すごく社会的な単語ですよね。生物として正常な範囲の個体差でも許容してくれない。そういう線引き自体が、個性(ここでは個体ごとのバラツキという意味です)を受け入れる考え方の対極に位置しているように思います。
「ADHDにも色々ある」と述べるとき、特にその想定する幅が広ければ広いほど、突き詰めれば突き詰めるほど、「人間にも色々ある」という意味にしかならなくなります。
発達障害という線を引きながら、その中の個体差を想定していこうというのは、なんとなく矛盾するようにわたしは感じますが、いかがでしょうか。
私が、「発達障害」とか「オタク」という括りでの「アイデンティティー・ポリティクス」を、「成り立たない」と感じてやめてしまったのも、概ねそういう理由だったりします。
括りを設けてしまうと、その括りの中で、「私の方が苦労している」「俺の方が迫害されている」と、「不幸の競争」の状態になり、それは代表者としての主導権を握る為の「転倒したパワーゲーム」になってしまいます。
そんなネガティブな感情での競争が発生してしまえば、「集団」は、「組織」として機能できなくなり、「内ゲバ」が横行し、意味を失ってしまう事になります。
かといって、薬を売りたいだけの製薬会社に「啓発」を任せるのは危険ですし、官僚の制度設計にも期待は持てない。
障害の枠とか関係なしに、人類一人一人の「人生」と言う名の「個人戦」をやっていくしかないのかもしれませんね。
むしろ、宗教や哲学や文学や心理学の役割なのでしょう。