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「発達障害者には凹しかない」がありえない理由〜リフレーミング〜

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自分自身を褒める
むりやりでもいい、まずは自分自身を褒めろ

どうも。発達障害界の松岡修造を目指す女、望月志乃です。

一般人と発達障害者の違いをドラクエで例えてみた
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 前回の記事にもまた、たくさんの反響、ありがとうございました。

ただ、ブコメ一覧の様々なご意見を拝見し、いくつかどうしても反論したいことがありましたので、僭越ながら、もの申させていただきます。

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 無能扱いをしたがり、されたがる不思議

いただいたご意見の一部。

いつものことなのですが、わたしの主張を安易に鵜呑みにせず、己の価値観に照らし合わせ、決して調子には乗らず、己を厳しく律しようとするその態度こそ、生真面目さの表れでなくて、何だと言うのか。

その真摯で慎重なスタンスのどこが「遊び人」なのか。

自分自身に期待せず、周りからも期待されなければ、ダメだった時に傷つかないというのはあるし、わたしにも身に覚えがある。

それだけ深く傷つき、社会や自分自身に絶望している。

社会の方に問題がないとは言わない

「普通じゃない」という理由で、マイノリティを見下し、コミュニティから排除しようとするなど、多様性を認められない、未熟な社会。

発達障害と一般人の境目は白黒はっきりつけられるものではなく、グラデーションのようになっており、誰もがグレーで、濃淡の違いがあるだけだ。

つまり、「色の濃い」発達障害への社会的配慮は、そのまま「薄いグレー」の定型発達者にも恩恵があるものとなる。

それは、このブログでも、表現や切り口を変えながら、繰り返し訴えてきたことだ。

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過去記事より一部抜粋。詳しくは引用元の記事をご覧ください。

発達障害の個人差について、イメージ図にしてみた
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精神科で「あなたは発達障害ではありません」と言われるのが怖いあなたへ
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では、社会の方が変わるのを、ただ待つだけなのか?

社会がアップデートされるのには、おそらく20年ほどかかるだろう。他国に比べて、人権意識の低い日本の場合、もしかしたらもっとかかるかもしれない。

社会が変わるのを待つ間、「自分ではない何かのせい」にしながら、卑屈なままで過ごすことになる。

社会のアップデートのために、問題提起や啓蒙活動など、自分に出来ることをしながら、同時進行で「ありのままの自分のことを認める」ことをしなければ、いつまでたっても自尊心の回復は見込めないし、全てのポジティブの源である「自己肯定感」も育まれない。

長所と短所はいつも表裏一体である

視界の窓(フレーム)を変える「リフレーミング」

リフレーミングとは、簡単に説明すると、自分自身の視界(価値観)の窓「フレーム」を変え、別の角度から再構築する作業のこと。

参考:リフレーミング – Wikipedia

例えば、こんなのはどうだろうか。

空気が読めない自分のペースに忠実

衝動的であるチャンスに対して躊躇わない

こだわりが強い自分の軸がしっかりしている

相手の感情が分からない

→相手次第で変わる不確定要素より、前提条件を共有できる理論を重視する

落ち着きがない好奇心旺盛で活動的

目を合わせられない繊細

癇癪を起こす理想が高く問題意識が強い

うっかり者であるサザエは日本最長の愛されキャラ

非常識である寅さんと浜崎伝助は人気者

普通じゃない個性的で刺激的

欠点だらけである
アイドルも一番人気は、欠点があり応援したくなるタイプ

あなたはこれを、詭弁だと思うだろうか。

しかし事実として、この国では変わり者を見下す一方で、なんだかんだで欠点のある人間が愛される。

「人は長所で尊敬され、短所で愛される」という言葉もある通り、自分の捉え方次第でどうとでも変わるものだ。

長所も短所も、絶対的なものではなく、相対的なものに過ぎないし、視界フレームは人それぞれである。そんなものにいつまでも囚われ、人生を左右される必要性が、果たしてあるだろうか。

人によって得意なことは違うから

けものフレンズのサーバルのイラスト
フレンズによって得意なことは違うから

現実には、多くの場合、わたし達は「のけもの」にされる機会が多い。

でも「けものフレンズ」や「アナと雪の女王」、「ズートピア」、「世界に一つだけの花」など、人間のありのままを愛し、多様性の肯定をテーマにした作品が、大ヒットしてきた意味を考えてみよう。

この国の、多くの人間が、本当はそういう「やさしい世界」を望んでいる。

だから時間はかかるかもしれないが、きっと大丈夫だと私は思う。

日本国民の心に、そういう願望がある限り、希望はあるよ。

社会が少しずつ変わっていくのを、自分自身の価値観をアップデートしながら待てばいい。

卑屈になったり、ただの無能扱いして終わってしまえば、いつまでもそのままだ。

誰も自分を認めてくれないなら、自分で自分を認めるしかない。

社会からも、家族からも、他人からも、そして自分自分からも認められないまま、何十年もただ待ち続けるのか。

発達障害者には、本当に欠点しかないのだろうか?

自分達で勝手にそう思っているだけではないのか?

視界(フレーム)が狭くなっているだけではないのか?

変化を恐れ、安定を好む特性もある、私たち。

ただ、あなた自身は本当にそれで良いのか、一度じっくり自分自身に問いかけてみて欲しい。

「自分はこれでいい」という強い確信があるなら、それでいい。

ただ、ネガティブなことを語る時に「発達障害者は」と、主語を大きくしないで欲しい。

逆に、ポジティブなことなら、いくらでも主語を大きくしていいと、わたしは思っている。この記事で、あなたの自己肯定感がほんの少しでも育まれることを、願っています。

「発達障害者には、1から10まで説明しないと分からない」に対する違和感と反論
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コメント

  1. 連投失礼します。
    私が感じている、福祉業界の問題は、この「世間」からの誤解とは逆のベクトルの誤解なんだと思います。
    つまり、薄いグレーの人が関りを求めてきた時に、濃いグレーの人向けの制度を適用して、自分たちを潤わせようとするという、故意の誤解なんですよ。

  2. 空気が読めない→自分のペースに忠実
    例えばAさんは、お葬式の時に笑ってしまう。真剣に悩んでいる人を茶化してしまう。こういった「人を傷つける行為」に対しての”空気が読めない”というのは、批判されても当然だし、批判されなければならない事だと思います。そこでもし、発達障害を持ち出すのであれば、特別視されても仕方がないと思います。
    「発達障害だから許せ」という意味と同じ事を本人自ら言ったのだから。
    衝動的である→チャンスに対して躊躇わない
    後先を考えず行動して、取り返しのつかない失敗をし、周囲にしりぬぐいをさせないのであれば、そう言えるかもしれません。「チャンス」と言える時だけ、衝動的になり、危険な事や取り返しのつかないような事に関しては慎重になれるのならば。
    こだわりが強い→自分の軸がしっかりしている
    拘りというのは、100%すべて悪いわけではないですね。物事の向上を図るための拘りは素晴らしいと思います。ですが、本人のみの感情を軸に、ただ単に「嫌だから」「好きなだから」と周囲の事も考えずに、無暗にその「方法論」や「やり方」に拘るとしたら、どうでしょう。「この方法だと皆の作業がスムーズに運んで上手くいく」という場面で「その方法より、こっちの方が好きだから」という理由で「拘り」を持たれては困りますね。
    相手の感情が分からない
    →相手次第で変わる不確定要素より、前提条件を共有できる理論を重視する
    あなたのお子さんがイジメにあいました。その上、あなたはお財布を落としてしまい、今月の生活費を失いました。ですがあなたの旦那さんが「同僚と遊びにいく」と言って、どこかのレストランに出かけたらどうでしょう。「なんで人の気持ちがわからないのか」と思いませんか? 
    癇癪を起こす→理想が高く問題意識が強い
    癇癪を起されると、話し合いもできませんし、強いストレスを感じますね。ストレスは心身共に周囲を疲れさせます。
    非常識である→寅さんと浜崎伝助は人気者
    そこには常に「他人への思いやり」があり、自分の利害のために行動した事ではないからでしょう。
    欠点だらけである
    欠点は誰にもあります。でも開き直っている人と努力している人には、大きな差があります。
    あなたが発達障害かどうかは問題ではないのです。それが周囲にとっても自分にとっても良い事か悪い事か、という事ではないでしょうか。悪い事(人を傷つける行為)であれば、それを正そうとする努力をする、という事ではないでしょうか?
    発達障害の人は、自然に学ぶというのが難しい事柄があると思います。人の感情などがその一つでしょう。
    そういった事を学ぶ手助けをして欲しい、という事であれば分かります。
    「差別をするな」と言いながら「障害があるんだから仕方ない、理解しろ」というのはどうなんでしょうか。
    「理解」というのは、互いを尊重しあい、同等であろうとするからこそ、生まれるものだと思います。「同情」ではダメですね。
    定型だって努力をしなければ「良い人間」にはなれません。誰でも同じ事です。誰でも苦手な事はあります。でも「できない」というのと「苦手」というのは違います。
    今の日本、自分が正しいと思っている人が多く「迷惑をかけるな!」といっては人を必要以上に攻撃し、自分が「迷惑な人」である事に気づかない。
    発達障害という「もの」に対しての理解は必要でしょう。でもその「理解を得る」とは「妥協を得る」事ではなく、その「理解しにくい事・だけど社会で生きていく上で重要な事」において「手助け」を求める事はありですよね。
    互いに「理解しあう」「歩み寄る」という形がなければ、ただの攻撃試合になるのではないでしょうか。
    私が「定型・非定形は関係ない」といったのは、そこです。
    どちら側だろうが、学ばなければならないことは同じだし、ダメな事も同じなんだと。私が言っているのは「基本的な事」で、細かい事の「違い」ではないです。

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