ちゃんとすることを目指さなくてもいいし、ちゃんとできない自分を責めても仕方がない。
こんなことを書くと、「開き直っている」とか、「努力を放棄している」とか、「正当化している」などと思う人がいるかもしれない。
たぶん、とても真面目で頑張りやさんな人ほど、自他にそういう「努力」を求めてしまうんだと思う。
それで何とかできちゃう人ならいいけれども、なかなかうまくいかない人もいる。
「できていない人」=「努力が足りない人」と見なされがちな社会で、周りに置いていかれないように、「まともな社会人」でいられるように、みんな必死に追いすがっていく。本当はみんな、もう走りたくないんじゃないのか。本当はみんな、歩きたいんじゃないのか。
もっと、マイペースに生きたいんじゃないのか。
それは本当に、「許されない」ことなのか?
いい学校に通って、いい会社に入って、素敵な異性と結婚して、子どもを産んで、穏やかな老後を過ごすという、模範的なコースから外れてしまっても、人生は続いていくし、不幸になるわけではない。
思えば私は10~20代の頃、いつも理想と現実のギャップに苦しめられていた。
ちゃんとしたいのに、できない。もっとできるはずなのに、できない。
何をやってもうまくいかない。
引きこもりたいわけじゃないのに、外に出られない。
一人でいたいのに、独りがつらい。
何をしても虚しく、生きていても良いことなんて何もないと考えていた。
抑うつ状態に陥ってからは、リハビリに大変な労力を費やした。
できることは限られているのに、ついつい自分に多くを課してしまいがち。それをこなせなくて自分を責めて、なかなか社会復帰できるまで回復に至らなかった。
そんな回復期にいつも自分に言い聞かせていた合言葉がある。
「できることを、できる範囲で、できる限り。」
今も、自分に絶望しそうになった時に、思い出す言葉である。
現時点ではちゃんとできないかもしれないけれど、未来はどうなるか分からない。
その時々に出来ることを、何かひとつでもいいからやってみる。
一歩ずつ、一歩ずつ、できることを増やしていく。
どんなに小さなことでもいいから、マイペースに進んでいけばいい。
外から見た人に何を言われても、気にする必要はない。
「自分」以上のことは、できない。
人にはそれぞれの信念や思想があって、その正しさを証明したいためか、第三者に自分と同じだけのことを求めたり、勝手なことを言うけれど、そんな風に相手に押し付けるタイプほど、本当は自信がないのかもしれない。
それに付き合って無理をして壊れてしまっても、誰も責任を取ってはくれない。
そもそもたぶん、そこまで深く考えていない。
「こうするべきだ」という自分の正義やポリシーは、他人に言われて決めることではないし、相手に求めるものではないと思う。
自分が自分らしく、自分のペースでいられることが、一番理想なのではないかと思う。
そう、これも「理想」のひとつで、この理想が叶えられず、現実とのギャップにガッカリしたりもするんだけど。
「自分に多くを求める理想」よりも「自分に多くを求めない理想」の方が、より快適で、目指しやすいのではないかと思う。
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