誰も救わないのかもしれないし、何の役にも立たないかもしれないし。
むしろ逆に、偏見や悪いイメージを広める危険性も大きく。
カミングアウトして発信する側の責任について、仕事の依頼が来る度に、考えてしまう。
当然のことだと思いつつ、同時に、それ自体おかしな話だろうという思いもある。
「ADHDと名乗るからには、他のADHDの迷惑にならないように、ADHDとして理想的な振る舞いをしなければ、ADHD全体のイメージが悪くなる。」
この、ADHDを、同じく私の属性である「AB型」に置き換えると、こうなる。
「AB型と名乗るからには、他のAB型の迷惑にならないように、AB型として理想的な振る舞いをしなければ、AB型全体のイメージが悪くなる。」
うーん、ナンセンス。
ただ、これを「女性」や「母親」に置き換えると、どうだろう。
「女性と名乗るからには、他の女性の迷惑にならないように、女性として理想的な振る舞いをしなければ、女性全体のイメージが悪くなる。」
「母親と名乗るからには、他の母親の迷惑にならないように、母親として理想的な振る舞いをしなければ、母親全体のイメージが悪くなる。」
こうなると、なんだか「納得はいかないが」「現状を考えると」「一理ある。」と思ってしまうのは、何故だろう。これが偏見や差別の感覚なのだろうか。
「自己紹介で血液型を言うように、「ADHD型です」と当たり前に言える世の中になればいい。」って思って、カミングアウトしたんだっけな。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年8月22日
うーん。ネットで見かけた「非常識な人」や「認知が歪んでいる人」や「思いやりのない人」に対して、軽い気持ちで「こいつ、発達障害でしょ」と断定する人、ご勘弁願いたい。他人に迷惑をかけないように、生きようとして、頑張り過ぎて二次障害で苦しんだり、多くがただ真面目に生きてるんだけどな?
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年8月20日
一方で、その人が本当に発達障害を持っている可能性もゼロではない。「発達障害だから常識がない」というのと「常識のない発達障害者」というのとでは大分、話が違うと思うんだけど。「最近の親」とか「最近の若者」とか、ただでさえ何かとひとまとめにしてしまいがちだからなあ。
— 志乃@アレをやる (@shinoegg) 2017年8月20日
不条理だと思うけど、カミングアウトするからには「まともに生きている」姿を周りに見せていかないと、全体のイメージダウンになってしまうのかもね。それが現実か。責任を感じるよ…。
— 志乃@アレをやる (@shinoegg) 2017年8月20日
逆に人気者が同じように「こいつ、発達障害でしょ」と断定された時、周りが「失礼だ!」という反応になるのを見ると、悪いイメージが根付いているのを感じて、複雑な気分になるのだ。良いも悪いもなく、良いとこ取りもできず。正しい知識が広まってない現状だと、安易な断定は危険。 https://t.co/XWA4WEahwU
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年8月22日
でもさ同時に思うんだけど。「安易な断定は危険。」として口をつぐんでしまうと、タブー化してしまって、結局のところ「そんなこと言うもんじゃない!」という流れになるよな。
— 志乃@アレをやる (@shinoegg) 2017年8月22日
とある人気者が「ADHDなのではないか?」ということで話題になっていた。
それに対するファン達の「弁護」に、世間の大多数が今、発達障害をどのように理解しているのかが垣間見えた気がした。
「本当にADHDなら、こうなはずだ」と言う内容を見ていると、中には「なんだそれw」と笑ってしまうものもあったのだが、笑っている場合ではないのだろうね。
「知り合いにもADHDがいるけど、こんなもんじゃなかった。」と、ADHDには個人差があるということを、多くの人が知らない。
「ADHDなら、こんなことは出来ないはすだ。」と、ADHDを誤解して、能力を低く見積もっていたり、
「ADHDなら、集中できないから無理なはず。」と、「ADHDとは注意力散漫で、集中できない。」という知識だけがあり、好きなことになら驚異的な集中力を発揮する「過集中」を知らない人が多いということが分かった。
そもそも、「ADHDって何?」と、存在自体を知らない人も。
誤った知識で「発達障害なんかじゃない」と誰かが言っているのを見ても、さほど不快にはならない。原因が分かれば、対策を取ればいいだけ。知らないなら、知って貰えるように、できることをやるだけ。ただ、同じことを実母が言っていると不快なので、私にとって大事なのは「大事な人の理解度」なのだな
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年8月22日
だけど、自分自身のことを振り返れば、「大事な人」を好きだと思う時、発達障害があるかどうかは、どうでも良かったりする。そこに、理解を超えた愛を感じたりもするんだ。
タイムラインには、発達障碍児の親御さんが、その子のことを思い、悩み、日々奮闘する様子が流れてくる。そのことが、少し羨ましい。完璧に理解したり、支援することは難しくても、自分のために努力してくれようとしている親の姿を見るのは、それだけで救いだと思うよ。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年8月22日
「欠点を含めて愛してくれる誰かがいて、自分のことを好きでいられるのなら、誰に何を言われたって本当はどうでもいいし、それで満たされるのではないか」という思いがある。
私がいつも「志乃さんのADHD当事者としての体験を、記事にしてください」と依頼を頂く時に躊躇うのは、それが理由なのかもしれない。
「知り合いにADHDがいますけど、こんなもんじゃないですよ。(だからADHDなんかじゃありません)」が横行している現在、「志乃さんもADHDですけど、そんなもんじゃないですよ。」に代わってしまうだけなら、世間様のご迷惑になってしまうだけなんじゃないのか。
ADHDは個人差が激しく、私のことを書いたとしても、それは私のことでしかない。
子育てもそうだけど「私だけじゃないんだ…!」と思えるだけで、励まされたり、元気になったりするし、それが驚くほど大きなパワーになることがある。
ただ、そうやって、「わたしと症状の重さが同程度の」当事者の方を励ますことができたとしても、その方にとっての「大事な誰か」や、それ以外の方に誤解を与えたり、世間への悪影響の方が大きいのなら、やめちまえって話だ。
個人差が激しい故に、色んな思いを抱えた当事者がいる。
その方々の日々の努力を踏みにじるようなことをしてはならない。
だからこそ、「私の話だけじゃ足りない」。
「実は私も…」と、自分の話をできる人が増える誘発剤にはなるかもしれない。
私ができることと言えば、その程度なのではないか。
で、だ。
需要があるかというと、そういうわけでもなさそうなのが、難しいところでして。
売れるか売れないか、面白いか面白くないかで言えば、コミカルでキャッチーなコミックエッセイを量産できるようになった方がいいのかもしれないし、作家としての需要があるのはむしろ、そちらかもしれない。
私の体験談は、誰を救うのか、何の役に立つのか。
人の役に立ちたいと思うが、きっとそれが全てではない。
私にとっての「大事な人(=家族)」だって守りたい。
このブログだって、そんな大層なことを考えて書いているわけではなく、ただ「書きたい」とか「言いたい」とか「伝えたい」という気持ちが大きいんだけどね。
「それって、どうなのよ?」と、思ったことを言わずにいられないのも、私のADHDっぽさであり。それら全てを内包して、商業作家として生きていくことを目指すなら、今後どうしていくべきなのか。
作家になることは、自己顕示欲と、承認欲求にまみれていた、幼い頃からの夢であったものの、最近はどうにもそこに価値を見出せなくなっている。
現場からは、以上です。
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