どうも皆さん、こんばんは。
この記事を書いている途中、コーヒーの入ったコップを派手にぶちまけました。
カーテン、点々、黒いシミ。どうも~~、ADHDで~~す!!!!
ここ数ヶ月、ぐっちゃぐっちゃ考え込んでしまって、ブログの更新が滞っておりました。
もうね、自分が何をしたいのか、誰のために何を、何のために伝えたいのか、見失ってしまいましてね。書きたい気持ちばかりが空転して、下書きを量産。
そうこうしているうちに、新鮮味が薄れて清書をする気もなくし。
あらやだ。何も公開できない。
そんな状態でした。
えーーい、ってなもんでね、ここのところずっと煮詰まっていたことを、半ばヤケクソぎみにツイッターに書き殴りましたので、それをそのまま掲載することに致します。
思考の垂れ流しで恐縮ではございますが、どんどこ進めてまいります。
「定型発達の皆さんも余裕がない」という現実
私がずーーっと考えているのは、定型発達の人でも「働くのが辛い」わけで、その余裕のないところへ、「我々の話を聞いて苦労を知ってくれ」と提案しても、無理な話なのではないかということ。発達障碍者にとって働きやすい環境というのは定型の方々にとっても同じだというアプローチの仕方がいいのかな
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月27日
例えば、うっかりミスが多いADHDの人は、人為的ミスを減らすための自分なりのノウハウを蓄積していたりする。それを共有することで、全体のミスを減らすことも出来るかもしれない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月27日
例えば私の場合、「極限まで手間を減らす」ことに常日頃から命をかけておりまして、アプリやらWEBサービスやら、省力のためのシステムを人知れず活用しまくっていたりします。
完全なる主観なんだけども、「恵まれている方々へ」「恵まれていない我々が」要求をするという、卑屈な図式になっているような気がして、違和感があったりするんですよ。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月27日
(※個人の感想です。)
私たちも定型発達の方々に対して、こちら側の視点から、テイクばかりではなくギブができるのではないかと思っています。そして、そういうポジティブなアプローチの方が聞き入れてもらえやすいでしょう。
自己受容したい。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月27日
自己受容とは簡単に言うと”ありのままで生きること”です。ありのままのあなたを受け入れ、その通りに生きることです。よく引き合いに出される自己肯定との違いは、『できない自分』を認めるかどうかです。自己肯定の場合、できないであろうことも『私にはできる!絶対できる!』と言い聞かせ暗示をかけますが、自己受容は『今の私にはできない。だからどういう対応をしようか考えよう』というアプローチです。まずは『できない自分』を認めることから始めましょう。
アドラー心理学 勇気づけ|”自己受容”の本当の意味アドラー.com
定型発達者と発達障害者はギブ&テイクの関係になれないものだろうか
足の引っ張り合いのような図式にはしたくないもんだけど、どちらかに「負担を強いる」方向性にいくと危険なのかなあ
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
発達障害者はマイノリティだと思うけど、同じ発達障害でも個人差はあって、また内部で多数派と少数派が存在する。「自分達と違う」ものを異物と捉えて排除したがる人はどこにでもいる。多様性とは。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
私は、思い込みかもしれませんが、自分の考え方は、発達障害クラスタの中でも少数派なのではないかと感じています。
わたしは、「特性の凸凹を、薬によって平にする」という選択肢がとれないので(緑内障の治療のため、ストラテラとコンサータの服用ができない)、凸を生かしながら生きていくしか方法がない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月1日
発達障害を持って産まれたからって卑屈にならなくてもいい
ただ、誰もが恵まれた環境の中にいるわけではないし、だからこそ多くの人が苦しんでいる。
そんな中で、今の私が何を言っても、机上の空論や、価値観の押しつけ、言葉の暴力にしかならないのではないか。
「励ましたい」という気持ちは、上から目線のものではないのか。
偉そうに。わたしが一体、なんぼのもんじゃーい。
少数派は黙っているべきなのか?
恵まれてるとか、恵まれてないとか。なんか面倒くさいなあ。みんなそれぞれ自分のポテンシャルを最大限に発揮できたらいいのにな。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
ADHDとして思うことは色々とあるのだが、私が感じたことを書くことで困る人がいる。望んでいない人がいる。その多くが「同じ当事者なのでは」という懸念。カミングアウトした上で自由に意見を言うという責任。同時に、その状況に対する疑問。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
発言には責任を持つべきで、何らかの影響力を持っている場合は尚更ですね(そういうご指摘を頂くことが増えた)。自分の発言が引き金になって、同じ属性の誰かに迷惑をかけてしまうことも往々にしてある。
ADHDにも色んなタイプがいて、色んな価値観があって、色んな人生がある。能力差もあるし、困難に思うことも様々。誰も代表してざっくばらんに語ることはできない。できないのだが、そういうふうに受け取られることも避けられない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
私は当事者だけども、「志乃」として個人の意見を述べているに過ぎないわけで、じゃあADHDと名乗ることに意味はあるんだろうか。結局のところ一人一人が違うなら、属性を名乗る必要性もない。かといって隠すのもおかしい。仲間に迷惑かけたくない。じゃあ何のため。誰のために。何を書く。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
いやーーー、書かなきゃいいんですけどね。何してるんでしょうね。
「みんなで幸せになろうよ」(機動警察パトレイバーより)
なんだかこう書くと胡散くささMAXですけども。
みんなまとめて楽になれる道はないのかしら。みんなが生き辛くて、みんな余裕がなくて、楽になりたいという共通の願いがあるのなら、そこに向かうことにエネルギーを使えないのかしら。卑屈に愚痴ってる場合じゃないのでは。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
経験上、「苦労比べ」を始めて、良い結果に終わった試しがない。
「ADHDだから」というだけで人より劣っている証明にはならない
ADHDをカミングアウトしているアルファアカウントも沢山いらっしゃって、皆さん魅力的なんですよね。理知的だったり、ユーモアセンスが抜群だったり、頭の回転が早かったり、憧れてしまうような方がゴロゴロいる。(あやかりてぇ)
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
「ADHDだから」という理由で「人よりも劣っている」説明にはならない。それでは困る人も、たぶんいる。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
「発達障害だからって、みんながみんな天才ばかりじゃないんだ、凡才の立場も考えてくれ」というのも、定期的に話題にのぼります。
どんなに凡才に思えたって、適材適所でなら、能力を発揮することはできるかもしれない。第一、自分自身のことを把握する「セルフモニタリング能力」が乏しいのも、発達障碍者の傾向のひとつ。自分自身の魅力を、自分自身が一番分かっていないなんてこともざらにあるんだと思う。
自分の能力を社会の中で発揮しようとした時、自分には何が出来て、何ができないのか、自己分析が必要になってくる。で、それはとても辛い作業だったりもする。
でも「何の取り柄もない発達障碍者だから」といって早々に社会貢献を諦めてしまうのも、自ら可能性を狭めてしまいそうで、勿体ないのではないかと感じる。
ま、そういう鼓舞は自分自身に向けてりゃいいだけの話で、他人に主張した時点でただの余計なお世話なんですけどね。すいません。
ADHDだからって、それを理由に甘ったれるなということではなくて。自己受容と自己肯定感なしでは人は満たされないというのがまずあって。胸を張らなきゃ始まらない。ネガティヴな動機づけよりポジティブな動機で好転するもんなんじゃないのかしら
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
世間のイメージアップのために生きるのか?
発達障害者は何かと世間から誤解を受けがちです。
https://shinoegg.com/entry/2016-11-05-120122/
私が私らしく胸を張って生きるのには様々な障害があって、同じ当事者からの「誤解されると困るから大人しくしててくれ」という訴えもそれに含まれる。カミングアウトした時点で品行方正である責任が生じる。なんか変。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
それは子育て中の親にも同じことが言える。「最近の親」のイメージアップのために育児をしているわけではないし、当事者にしかわからない苦労もある。属性の看板を背負わされ、レッテルを貼られ、対外的な責任ある行動を求められ。なんだこりゃ。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
「中にはそういう人もいるんだね」で終わらずに大騒ぎになるのは、カテゴリで考えることの弊害なんだろうか。脳のオート省エネモードらしいけど。人間ってやつぁよう。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
聞きかじった知識ですみませんが、人間が「一緒くたにして考えがち」なのは、脳の省エネのためなんだそうです。誰もが無意識のうちにそうなってしまう可能性がある。そういう脳の省エネから、偏見が生まれる。
(例:これだから男は・これだから女は・これだから〇〇人は等)
誰ひとりとして、「総括した人間」になることはできない。
要するに何が言いたいのかって言うとね
要するに何を言いたいかっていうと、色んな方面に色んな配慮をした上で「発達障害当事者として」発言しようとすると、なんかもう何も言えねえなって心境
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
言ってるね。
ウン、言ってる。
ポジティブに生きたいんだわしゃー。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
勝手にポジティブに生きてろよって話でね。
スッキリした。なるほど。ポジティブに生き、「楽になる」ための主張をしたいのだった。理解。それが当事者仲間の誰にも求められていないような気がして二の足を踏んでいたのか。うーん。誰のためとかじゃないなあ。自分のためだなあ。私利私欲。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
結局のとこ、自己責任において、自己満足のために、「自分がどうしたいか」「自分に出来ることは何か」という主観的な軸でしか動くことができないのかもしれない。
困ったことに、自分なりに考えたことを黙っていられないのも、私の特性のひとつだったりもして。じゃあ、自分はこれからどうあるべきなのかと考えますと。
自他を認め、受容し、生きていこうとするならば、無知でいてはいけないのだと痛感した次第です。
フォロワーさんには何度でも言っておこう。私が今後、何か人として間違ったことをしたり、言ったとしても、それは発達障害者だからではなく、わたしがアホだからです。そんなことをしないように努めますが、有事の際はお忘れなきよう、お願い申し上げます
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
誰かがどこかで発達障害者に対する偏見や差別の言葉を耳にした時、(でも志乃さんは違う、そうじゃない人もいる)って思って貰えたら、それで満足かもしれない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年2月28日
「こんな人もいるんだ」と知ってもらうには、一人一人が自己開示する以外に、方法なんてないんじゃなかろうか。
現場からは、以上です。
コメント
地元です。ブログ楽しみにしてます。
>id:adhd-bumpyroadさん
じわっと来ました。ありがとうございます。