「無理解」にも種類があり、全ての人から好意的に見て貰うことは不可能
「無知から来る無理解」には啓発活動をすればいいだけだけど、「悪意から来る無理解」はどうにもならないなと感じることが多くて、それをどうにかしたいと思うことはエゴかもしれないってのがある。どうしても理解して欲しいなら好きになって貰うのがいいけど、つまり同類になるってことなんだよねー。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
「話せば分かってくれるはず」なんてのが幻想だっていうのは、みんな薄々気づいている。「全ての人に理解して貰うための啓発活動」は無理で、どうやって味方を探すかなんだと思う。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
他人の多様性を認める者が、結局は周りから認められる。
世の中、ビックリするほど意地悪な人がいる。でもその人はその人でペットや自分の子どもにはとても優しかったりするのが人間。意地悪と自分が感じても、単なる価値観の違いかもしれない。色んな人がいていいんだって思うことが結局は自分を守る
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
全員から認められたいというのは、他人の自由な見解を認めないということで、それは多様性の否定でもある。
啓発活動は、誰のため?何のため?
全員から好かれることは無理。
身近な理解者や支援者を探し、自己理解を深めて、自尊感情を高めることが幸せの近道だとしたら、なんのために啓発活動を行っていくのか?
他人に期待すればするほど苦しくなって、「自分と他人は違う人間である」という自他の境界線があいまいになっていく。
健常者の皆さんに理解されずとも、自己肯定感さえ身についていれば、強くしなやかに生きていける。他人に理解してほしいと思うから苦しくなる。分かるわけがないと割り切って、自分を好きになる努力をした方がいいんじゃないかしらと思う今日この頃。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月21日
理解してもらうために1番手っ取り早い方法が、「愛されること」。嫌われたらその時点で理解から遠のく。だから理解を広めるアイコンとなる人物には、好感度が重要になってくる。大衆から理想化されればされるほど、内外からの風当たりが強くなる。そのいい例が乙武さん。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月21日
「ADHD主婦の当事者」として意見を求められる機会が増えた
発達障害だとカミングアウトしたサザエさんを笑えるか問題(ADHD当事者として思うこと)
以前、ADHDをカミングアウトする記事を書いて、「ADHDを持った母親に対する情報が、書籍にも、ネットにもない、カミングアウトも困難だ」という旨を訴えたところ、わたしを取り巻く環境が、少しずつ変わってきた。
ありがたいことに、「お仕事」としてエッセイを依頼されることも増えてきた。
ここ最近、「ADHD主婦として」お仕事のご依頼をよく頂くんですよ。他にカミングアウトしている人がいないという理由だと思うんですが、果たしてそれでいいんだろうかとも思う。カミングアウトしないには理由があるし、そこを超えないと安心できないよな。やってて思うがオススメはできないし。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
前だったら仕事のご依頼が来た時点で食いついてたところだけど、実力や技量、知識量が伴わないとご迷惑をおかけしかねないなというのがあり。「ADHD当事者としてのご意見」を求められても、それを述べるにはADHDとそれに悩む人のことを知らなさすぎる。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
まあ、知らないなら勉強すればいい話なんですけどね。
私は「たまたまうまくいっているだけ」の特殊な事例だというのがだんだん分かってきた。「他にいないから」という理由で私がなんかデカい声で言うわけにはいかないよなとか。「私は代表者じゃありません」と言ってもそれは通用しない。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
関連記事:
ADHD仲間や世間に迷惑をかけずに、自分らしさフルスロットルで生きたいという話
まだまだ偏見も根強い中、「私は発達障害者です」という声が上げづらく、上げたら上げたで、数が少ないため今度はその人が代弁する代表者のように振る舞うことになってしまう。多種多様な発達障害の看板を、個人が背負うには負担が重く、個人差が激しいため、誤解も広まりやすい。
障害者に「性格の良さ」が求められがちなのも、周知の通り。
わたし1人が声を上げることはできるけど、たぶんそれじゃあダメなんだろうな。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
昨日の大人のADHDの講座でも、時代は「自分のことを知る」フェーズから「自分のことを話す」フェーズに移行しつつあるというお話だったけど、体感として、自分のことを話しても困難に直面する機会が多くてまだ社会にそれを聞く準備ができていないように思う。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
発達障害のお困り度には個人差がある。先入観を捨て、「発達障害」ではなく、一人一人を見てもらいたい。
「みんな」に「発達障害のこと」を知ってもらいたいのではなく、「大事な誰か」に、「自分のこと」を分かってもらえるかどうかなのではないだろうか。
関連記事:本当はみんな、自分の頑張りをただ認めて欲しいだけだったりして。
自分のことを知ってもらうためには、自分で自分が、自分のことをよく知っていなければならない。
これまでずっと「ADHDには個人差があり、それぞれに価値観があり、困っていることも、思想も、目指すところも違うんだ。一人一人を見てほしい」と繰り返し書いてきたつもりだけど、まったく伝わってない、もしくはその段階にないと気づいてしまったときの脱力感。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
ADHD主婦代表と扱われることを覚悟して、看板を背負い、内外から批判される責任くらい持つつもりでやんないといけないんだろうかー。それは私の信念や、目指すところ(みんなちがって、みんないい)とは違うんだけどなあ。他に適任がいるような。どうしようかしら。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
ならせめて、ADHDをポジティブにカミングアウトできるような雰囲気を作ることくらいはできるかなあ。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
「こいつがADHD主婦代表みたいな顔してんのがムカつく!私もADHD だけどこんなのと一緒にされたくない!!」っていうのもまあ、カミングアウトだよねw そういうことでも、いいのかもしれない。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
「わたしは違う、わたしはこうだ!」の積み重ねで、認知が広がっていくんかな。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
世間にADHDの認知を広める意義とは
自死してしまった親戚、小さい頃よく遊んだんだけど、いま彼のことを思い出すとお仲間っぽさが多々あった。彼に知識があったら、診断を受けてみる気になって、支援を受けられて、今も生きてたのかなあ。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
「世間の理解なんて必要ない」ってわけではなくて、啓発活動で認知が広がることによって救われる人がまだまだ沢山いるのかもしれないな
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年5月29日
関連記事:【大人のADHD】知らぬが仏?知らぬと地獄?経験を踏まえて考えてみた【10月はADHD啓発月間】
まずはまだまだADHDのことを知ってもらう段階で、カミングアウトする土壌はまだ整っていない印象。それでも少しでも多くの人が声をあげていくことで、負担が分散されていき、色んなタイプがいるんだということが、自然と広まっていくのかもしれない。
カミングアウトした1人1人が、誰からも安易なレッテルを貼られず、負担に思わなくて済むような社会になることを願う。
現場からは、以上です。
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