どうも。望月志乃です。
4月2日は「世界自閉症啓発デー」 、2日から8日までは 「発達障害啓発週間」です。
毎年この時期になると、「(自閉症を含めた)発達障害を正しく知って欲しい」と、情報発信が盛んに行われます。
それらを軽視したり、批判したり、反対したいわけではないのに、毎回どうしてもモヤモヤとした違和感を抱えてしまいます。
それが何故なのか、考えをまとめていきたいと思います。
常連読者のみなさん、ええそうです、またこの話ですよ…!
啓発メッセージを「受け取る側の視点」に立ってみる
ある1人の当事者が「発達障害は、こういうものです」と説明していても、蓋を開けてみると「私の症状はこうです」と言った方がいい場合が多い。
「こういうことで困ってます」ということを話す時、主語は「発達障害者は」よりも「私は」の方が正確。
当事者の数だけ悩みがあり、それを1つ1つ「理解してくれ」と世間に訴えたのでは、受け取る側も大変。
困惑したり、敬遠されたりするのではないか。
「フーン、そうなんだ。大変なのは分かったけど、結局よくわからないし、面倒くさいな。」
「(極端な例を見て)発達障害の人って、みんなこうなの?…ま、私には関係ないか。」ってな具合に。
伝えたいことがある時に大切なこと
伝えたいことがある場合、「誰に」「何を」「どんな風に」「どう伝えるか」が大切。
より多くの方に知って欲しいと思うなら、伝わりやすく、わかりやすく、かつ誤解のないような表現を考え、受け手が受け取りやすい形にして投げかける必要がある。
発達障害の場合、それが本当に難しい。
個人差が激しい以上、「当事者である自分の話」は、結局「自分の話」でしかない。
「望月志乃さんという人が、発達障害なのにブログでこんなことをやっていたから、あなたも同じように頑張りなさい」と言われたら、きっと困る人の方が多いだろう。
「アインシュタインみたいな特殊で相対性な何かになりなさい」と言われても、大多数の人が困……アレ?意味的には一周回って困らない…?
……さておき!!
そういう、誤解を招く原因となるものは何かというと!
発達障害の啓発が難しい理由とは
そう、答えはひとつ。「発達障害は、個人差が激しすぎる」こと。
特に重症な例の話が「自閉症とはこういうものです、知ってください!」として広まったり、天才の例を持ち出して「発達障害者はみんな天才です!」と広められたり。
このブログも、わたしが発信していることは全て「私の場合はこうです」というだけのもの。
長くブログを運営していると、当事者や、そのご家族から「あなたのせいで、当事者のことを誤解されたくない」というご心配を寄せられることが多かった。
それで思うのは、誰も発達障害者の代表にはなれないし、「自分とはかけ離れた当事者」のイメージが、先入観として世間に広まることを、脅威に感じてしまう当事者がたくさんいるということ。
あなたが求めているのは本当に「発達障害」への理解?
「発達障害」というラベルの知名度が上がっても、あなたへの理解がすぐに増えるわけではなく、むしろ「どこかの発達障害者の話」が、「あなたの話」として広まっていく。
大ざっぱに伝えたイメージは、大ざっぱに理解され、偏見もうむ。
本当の願いはなんなのか。
本当の本当に、望んでいることは何なのか。
ADHDの友人がメッチャ増えたんだけども、当たり前だけど皆ぜんぜん違う。発達障害という「ラベル」ばかり知れ渡る弊害もあって、要らぬ先入観を与えたり、実際よりも低く(高く)受け取られる事もある。自己理解から始めて、自己紹介をするのが大切だと思う。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2019年4月3日
障害者雇用された結果、本当はもっと仕事に活かせる能力があるのに、単純な軽作業しか回されないなんてこともある。
実際よりも症状を重く見られても、軽く見られても困るのが発達障害で、等身大の個人を理解して貰いたい。
発達障害への偏見や誤解はなくならない
もちろん、「おおまかにでも、多くの人に存在を知ってもらう」という啓発活動も、非常に意味が大きく、大切なことなのだが。
どんなに発達障害の認知が広まったとしても、「不寛容社会」な日本文化が根本から変わらない限り、誤解や偏見はなくならないと考えた方が自然だ。
他人のミスを許さず完璧さを求め、
個性をもて囃しつつも同調を重んじ、
マナーがどうの、常識がどうのとマイノリティを排除する。
悲しいけれど、それが日本という国。
ただ、そう悪いところばかりでもなくて、集団ではなく、1対1で向き合ってみれば、あっさり誤解がとけたり、あたたかい人情味が溢れていたりもするんだよね。
世間(集団)に、発達障害(集団)の、苦しさを伝えるより、
身近な人(個人)に自分(個人)の苦しさを伝えていく方が現実的で、たいせつなことのように思う。
自分の言葉で、自分のことを伝えるためには、自己評価に対する認知の歪みを矯正したり、自己理解と自己受容を深めることが大切になる。
「世間からの誤解を恐れなくなる」のが理想
自己肯定感の高い人間は、他者からの評価を気にしない。
世間が自分のことをどう言おうと、「自分は自分であり、自分には価値がある。」というゆるぎない自信を持っている。
発達障害者の多くは、過去の体験から、自己肯定の低い人が多い。自己肯定感が低い人の特徴として「誰からも好かれようとする」「他人の評価を気にする」
「拒絶されることを恐れる」などがあって、「誤解されたくない!」という気持ちが大きい。でもその恐れこそ乗り越えなきゃいけない壁なんだよね…— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2019年4月3日
誤:自己肯定の低い人→正:自己肯定感の低い人
「世間の人」にどう思われても、自分自身と、大切な人を愛したい
言葉のボールを投げたいのはどこなのか。「世間」というモヤモヤしたものへ向かって投げるより、身近な「たった1人」に届くだけで、救われる当事者がいる。自分の話を、自分の大切な人に、誤解されることを恐れず、言葉を尽くして、勇気を出して伝えれば何かが変わるかもしれない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2019年4月3日
大切な人を大切にしたいと思う時、「発達障害だから」が理由になるかっていうと、そんなことはなく。「好きだから」というシンプルな理由で、人間は動くんじゃないのかしら。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2019年4月3日
誤解や偏見に負けない自己肯定感と、
理解者がいれば、きっと何とかやっていける。
でもその、最重要な2項目が、多くの当事者にとって、とても大きな課題である。
発達障害を知って欲しいんじゃなく、自分のことを知って欲しい。
発達障害者を愛して欲しいんじゃなく、自分のことを愛して欲しい。
たとえ誰にも理解されなくても、自分で自分のことを好きでいたい。
言わないと分からない
「定型発達の人にも分かりやすく」作られた啓発メッセージの数々を見ていると、「そうか、こういうことも言わないとならないのか」と、驚いたりもする。
世間の当たり前が、こちらにとっての当たり前でないように、こちらにとっての当たり前は、世間一般では当たり前でない。
根本的に考え方が違うので、自分の想像以上に、たくさんの説明がいる。
だから、発達障害の啓発はとても大切なこと。
ただ、自分のことは結局、自分で伝えていくしかないし
大切にしたいのは、大切な人を大切にすることと、自分を認めることなんだと思う。
さて。
“ただの自己紹介記事”にお付き合い下さり、どうもありがとうございました。
またね。
コメント
「実は(発達障害の特性で)誤解されて、理解してもらえなくて、つらい思いをしている」っていうことすら知らない人が多いと思います。
ただの変わり者、偏屈、KYってレッテル貼って。発達障害もレッテルとして使われたり。
つらい思いをしてるんだなってことは、伝えないとわからない場合も多い。人に傷つけられて痛い思いをしたことがない人はわからないから。
でも、つらい思いを伝えるには、伝えたいと思えるような相手の「話せる」雰囲気も必要。
うまくまとまらないけど、とにかく痛みが存在していること、わざとじゃなく障害が原因での言動だったりすること、あれっと思ったら、相手を即座に決めつけるんじゃなくて、ちょっと考えてほしいんです。
長文になって、すいまんでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。