助けてあげようと思ってもらえるだけ、有難いんでしょうね。
そういう支援活動で、救われている当事者も、中にはいるんだと思います。
ただ、わたしも人間ですから、どこか上から目線の、ズレたアドバイスをされるたび、漫画のようなことを考えてしまいます。
発達障害は「治すべき」で、「克服すべき」もの?
わたしにとっては、発達障害というのは、血液型のようなものです。
持って生まれた血液型のタイプが違うように、脳のタイプが「ADHD型」という感覚。
「Rh-の血液型は、治すことができます!克服していきましょう!」と言われたら、どうでしょうか。(該当者の方、すみません)。
(単純に比べられるものではないでしょうが)輸血で困ることもあるでしょうし、マイノリティということで、計り知れない苦労があるんだと思います。
でも、治すとか、克服するとか、そういうんじゃないですよね?
わたしにとっては、似たようなことを言われている気持ちになるのです。
「治す」ことを目的としたり、「克服」を目指すというのは、前提として「発達障害は悪いもの」ということになる。共存することはできる。何をもって「治療」としてんだろ。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2018年10月28日
なんかそういう表現をためらいなく使ってしまう団体が、支援者として啓蒙活動を行なっているのってどうなんだろ。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2018年10月28日
得意なこともあれば苦手なこともあり、その差が激しい
確かに、定型発達(発達障害ではない人のこと)の人が、当たり前に出来ていることが出来なかったり、生活の中で困難さを感じることが多いです。
が、その反面、定型発達の方々より、得意なこともあります。
大人の発達障害者は「可哀想な人たち」なのか?
わたしは発達障害があることに対して、まったく卑屈な考えを持っていないので、昨今の啓蒙活動に、とても違和感がある。「周りが助けてあげなきゃいけない存在」ではないし、「可哀想な病人」でもない。支援て、支配欲が絡んだりもするし、対象を見下す危険性をいつも孕んでいるんだよね…
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2018年10月28日
どうして、「相互理解を深めて」「助け合っていこう」とはならず、一方的に「授かる立場」にされてしまうのか。
わたしは、持って生まれたものを前向きに受け止め、自己肯定感を育み、プライドを持って生きていきたい。
ただ、苦手なことで、周囲に迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。
でも、これまでずっと、定型発達として生きてきて、「困った時はお互い様」と、助け合う場面もたくさんあった。
それが、「発達障害」というラベルが貼られた途端に、無条件で見下される対象になってしまった。
発達障害児を育てながら、無自覚で「見下す」お母さん
ずーっと定型発達として生きてきて、それなりに苦労もしつつ、学校生活を楽しんで、大学に進学できた。そして子どもを産んでから自分がADHDだとハッキリ自覚をした。娘を公園で遊ばせていた時、ADHDのお子さんを子育て中だというお母さんに会い、軽い気持ちで「私もそうなんですよ〜」と言ったら→
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2018年11月1日
※正確には「わたしにもADHDがあるんですよ〜」と言いました。
「えっ?えら〜い!」と言われ、物凄くモニョった。そんなつもりはなくても、そのお母さんは、はっきりと私を「定型発達より下」に見ていた。あのお母さんは、そういうスタンスで、あの子を育てていくのかなあ。たまに思い出して考える。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2018年11月1日
「えらい」の他に、「(発達障害者なのに)子供を産んで、育てられてるなんて、すごいですね!」とも言われました。
ADHDというだけで、「自覚なく」見下される。軽〜重度まで幅が広くて、知的障がいを伴う人もいれば、IQが高く天才と呼ばれる人もいる。お子さんのADHDについて、そこそこ勉強しているだろうと思って、軽い気持ちで言ったらこの有様。なんだかね。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2018年11月1日
これねぇ…、言ってる本人は全くそんなつもりがないんですよねえ。
むしろ、「(発達障害者なのに)頑張ってますね!」と、激励したつもりなんだろうなあというのは伝わりましたので、あいまいに笑って、御礼を言いました。
人間の尊厳ってなんだろう
脳のタイプが違う、脳の機能に障害がある、普通の人ができることができない。
発達障害はグラデーションのようになっていて、厳密にいうと「普通の人」も薄いグレーです。
どこを境目にして、侮られることになるのだろうか。
診断がつくかつかないかも、医師によって基準があいまいなものなのに、まるでハッキリと明暗が分かれているよう。
悪気なく、むしろ善意から、上から目線の人がいて、遠回しに侮辱されていると感じても、「ありがとうございます。お気持ち、嬉しいです。」と、笑って御礼を言う。
能力的に優れてないと、尊重されなくて当たり前なの?
発達障害者にだって、胸を張って生きる権利がある…というようなことを書くと、「あなたは、能力的に恵まれているから、そんなことが言えるんだ」と、よく言われる。
重度の発達障害者の、度が過ぎた迷惑行為に悩まされている人にとっては、「それでは困る」という現実もある。
「普通の人」と同等に扱われることで、大きな負担を課せられてしまう人もいる。
「能力的に恵まれているから、あなたはいいかもしれないけど」というのは、
裏を返せば、「能力的に恵まれていない人間は、社会から尊重されなくて当然である。」ということにならないか。
他人が言うのならまだ分かるが、当事者本人がそう思ってしまっていることも多く、そんな姿勢では、自己肯定感が育まれるはずがない。
わたしは、自分くらいは自分の味方でいたいと思うし、見下されることに慣れたいとも思わない。
だからこそ、昨今の「自称支援者」からの
「発達障害は治すことができます!」だったり
「正しく理解しましょう!」だったり
「周囲の理解とサポートが必要不可欠です!」というアドバイスに、違和感をおぼえるのです。
持って生まれた脳で、これが、わたしです。「わたし」を治す気はありません。
正しく理解するも何も、自分のことですから、言われるまでもなく勉強しています。
周囲の理解とサポートに心から感謝していますし、確かにそれらがなければ、わたしは生きていけません。
ただ、それを言ったら「誰だって、人は1人では生きてはいけない」のではないですかね。「相互理解」と「助け合い」ではなく、一方的に与える側と、与えられる側に分かれている表現に出会うたび、「施し」を受けているようで、なんだか複雑な気持ちになるのでした。
(程度にもよるでしょうが)
発達障害者は、本当にそこまで可哀想な存在なんでしょうか。
社会の一員として、プライドを持って生きてはいけないんでしょうか…
(※個人的な見解であり、全ての当事者がそう感じるものではありません。また、「わたしと同じように思うべきだ」と、強要するものではありません。)
コメント
はじめまして。三児の子育てをしているものです。子どもが発達がゆっくりという診断を受けていて、まわりの理解しようとか可哀そうとかいろいろな指導に疑問を感じていました。私が子どもだったら、嫌だと感じると思っていたけど、実際発達障害の人の気持ちというのは、どういうものか知りたいと感じていました。
その通りですね!!!
私もいつも言ってるんですが発達障害って「強い個性」でしかないです。
発達障害をなおすなんて個性をなくすようにしましょうと言ってるようなものです。他人に迷惑をかけるような場合や本人自身が困っている場合は適切な方法を教えてあげる必要はありますが、性格を変える必要は無いと思います。
発達障害も定型発達でも人間だれしも欠点は裏を返せば長所です。
私も沢山の人にこのことを知ってほしいです。
発達障害と診断を受けたわが子は難しい部分を抱えながらも、興味のあることに物凄い集中力を発揮して親が驚くようなことをやってくれます。天才です(それはかいかぶりすぎか…^^;)
私自身も定型と思って育ってきたものの、片付けやマルチタスクが苦手だったりそのケはあるなって思ってます。
素晴らしいブログを有難うございます。
どうなんだろう。
その通りで正論なのですが・・・
中には、上から見てるって思われたくなくて、考えて考えて、でもたくさんお話ししているうちにそう言った表現になってしまった・・・という場合もあるかと思います。
考えるな!その時点でおかしいでしょ!
と言われればその通りなのですが。
うーん。難しいです。
人と違うことって世の中溢れていて。
些細なことでも特別視されることなんてたくさんあります。
シングルマザーですって言ったら「偉いね〜」これも見下してるのでしょうか。
まあ見下して言う人もいますよね。
あ!!!
否定しているわけではないんです!!!
世の中、そう言ったおかしな正義感?に溢れていることはとてもおかしなことだと感じています!
ただ、その中に、言葉の使い方を間違えただけで、心は普通な人っていると思うんです!
あー今まさに私がその空回り状態ですよね・・・。
決して否定したいわけじゃなく・・・
なんて言ったらいいんでしょうか。
正解が知りたいです!どう接したら気分を害させることなく、仲良しになれるのでしょうか。
すみません。勉強してきた分野だったので、思わずコメントしてしまいました。
とにかくたくさんの方にこの記事が読まれることを望みます。
ほんとどうでもいいこと言いますが
締めないで
じゃなくて
諦めないで
じゃないですか?
いや、締められたくないけども…
初めまして。まだまだブログ駆け出しの初心者ですが、とても興味深い記事でしたので思わずコメントをしました。
発達障害がかわいそうかと言うと、そうではないと思うのです。
日本人は和を重んじることを美徳と考える性質があるからでしょうね。少数派を排除する傾向があるかと思うのです。
発達障害も、今でこそ認知はされていますが、少数派である。
安易に「かわいそう」という人は、「排除される立場になるから」かわいそう
という意味合いなのかなと思うのです。
発達障害ではないですが、よく「一人っ子がかわいそう」というのを耳にされたかと思いますが、一人っ子がかわいそうという表現にも通じる部分があるのかなとも思っています。
発達障害というのはとても曖昧なもののように感じます。それも一つの個性であって、それこそ理解するということだと私は考えます。
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Good Post, I am a big believer in posting comments on sites to let the blog writers know that they’ve added something advantageous to the world wide web satta matka and satta matka ank and satta matka guessing..
理解してあげよう、で自分は良いと思います。
いくら説明してもLDを認めない方にあったこともあります。
まだまだ世間の理解は十分ではなくそういう啓蒙活動を進んでしていただけるのは感謝しかない。
自尊心を多かれ少なかれ失っている神経発達症の方がほとんどであり、そういった方にとって調子を崩したときなども、いかに周囲が理解しているか、少なくともそうしようとしているかが回復の早さに関わってくる。
語弊はあるが、自尊心も十分にあり、自分の特性を理解したうえで苦手なこともありながらも社会生活をそれなりに営んでいけるという方は、神経発達症の中でも支援も手厚くは必要でない方であり、多数の支援を目的とした行動の理念から外れることはままあるのではないかと思う。
当たり前でしょ。定型の人よりやれる事が少ないんだから性能が低いと考えるし、性能が低いものは重宝されにくいのは人間でも同じなのでは。人間はそんなに博愛的ではないですよ。
そもそも、発達障害、という呼び方で世間に浸透してしまっているのがいけない気もしますね。定型、不定型という分類なら互いに同列という感覚を得やすいと思うんですが……
定型発達の方は基本的に、そこまで不定型発達のあり方について興味がないため、理解や知識に乏しいのは仕方のない事なのかなと思います。不定型の一部の人は物事を深く深くロジカルに考えますが、そうでない方は物事の本質にまで辿り着かない事も多々ある。
そういう感覚の違いも、“私は正しい。けれどあなたも正しい”と認め合えるのがベストかな、と思いましたヽ(・∀・)ノ
各々に適切な形をみつけたいものですね。
なかなか難しいことなんでしょうけど。
当方、adhd ですが、
現実見下されてますよね…
医学的には「スペクトラム」(連続体)であちらとこちらは地続きで、と理論上ではわかっていても
定型さんたち、というか多数派
の既得権益はだれが好んで手放す
もんですか!
になるよね。
遠い遠い未来には発達さんたちも人権得られるだろうけど
令和どころか何世紀先、と考えた方が良いと思うな…
AIだなんだで社会のパイがどんどん小さくなっているのだから
「施し」うけても
その日1日を生き延びることを、サバイブすることが
優先なんだろうね。