成人式の当日に、契約した業者が手配しホテルへ郵送されているはずの着物が届かず、多くの新成人が被害に遭い、大きなニュースになっていた。
被害総額は数千万円とも言われている。
成人の日の8日、横浜市中区などに店舗を置き、晴れ着の着付けやレンタルを行う「はれのひ」と契約した新成人らから「店に行ったが誰もいない」「店側と連絡が付かない」といった相談が警察などに相次いだ。
引用元:成人の日:「はれのひ」もぬけの殻 晴れ着着られず – 毎日新聞
この事件に対して、テレビの司会者が「これを機に着飾るのやめたら?」という頓珍漢なコメントをしたとか、どこかの心無い誰かが「別に晴れ着がなくたって成人式には出られるだろう、騒ぎすぎだ」と言っていたとかで、Twitterで話題になっていた。
後者は、「これが成人式ではなく、お前の好きなイベントだとしたら、こういうことなんだぞ」という、自分の身近な問題に置き換えられた例え話を聞かされたことにより、ようやく事の重大性を理解した、というオチで締めくくられていた。
それが実話かどうかはさておいて、そんな風に「自分の場合だったらどうなのか」と置き換えて考え、共感することが苦手な人というのはたくさんいる。
それを受けて考え、ツイートしたことを、以下にまとめておこうと思う。
自分に置き換えて共感する能力が弱いと「どうでもいいことで騒ぎ過ぎ」と「自分は平気だから平気じゃない奴が愚かに見える」か「自分にとって大したことがないから他人が大事にしている感情が理解できない」ことになるのかな。「自分には分からないけど大変なんだろう」は人によっては難易度高い
— 望月志乃🌕名字つけた (@shinoegg) 2018年1月9日
「生まれ持った身体的特徴と、性自認が一致しない」という事象についても「そうなんだ、自分には想像がつかないけれど、きっと大変だろうね」にはならず「そんなのはおかしい!」と批判する人がいる。他人が他人らしくあることを否定する人は、自分らしさを抑圧しているんだろうか。不思議なんだよなあ
— 望月志乃🌕名字つけた (@shinoegg) 2018年1月9日
「晴れ着なんかなくても成人式には出られんだろ?」も、想像力が足りていない。祖母から母へ、母から娘へと大切に受け継いできたものだったかもしれないし、その着物をきておめかしをし成人式に向かうことをとても楽しみにしていた女子だって沢山いただろう。一生に一度しかない日だから「晴れの日」。
— 望月志乃🌕名字つけた (@shinoegg) 2018年1月9日
思いやりとは想像力とよく言うけれど「ちょっと考えれば」「自分に置き換えてみれば」分かるであろうことをせず、脊髄反射で否定する人を見ると、色々と考える。たぶん、自分の頭を他人のためにそんなに使ってないんだろうな。
— 望月志乃🌕名字つけた (@shinoegg) 2018年1月9日
一方で、脳みその特性上、どうしてもそういうことが苦手な人というのも存在する。そういう人はそういう人なりの苦労があるんだろうというのも分かるので、多様性というのはそういう人も含めて「みんな違ってみんないい」に尽きるんだよね。
— 望月志乃🌕名字つけた (@shinoegg) 2018年1月9日
私は逆に人の顔色を伺い過ぎるところがあるので、「相手の気持ちを尊重しない人」に嫌悪感を抱きやすい。それは見方を変えれば自分の抑圧と拘りによる多様性の否定でもある。主観を超えて考えようとすると、安易に否定ができなくなっていくんだよ。
— 望月志乃🌕名字つけた (@shinoegg) 2018年1月9日
脊髄反射で否定したことで、その人の価値観や考え方が浮き彫りになることがある。
結局のところ、良し悪しというより、「好き嫌い」や「相性」、「住み分け」の問題なのだろう。他人が他人らしくあることが許せない場合、その人のなかに抑圧された「何か」がある。それは相手の問題ではなく、自分の問題だったりするんだ。
多様性を許し合う社会を目指すとき、「多様性を認められないという個性」をどう容認するのかという課題がある。
その人がその人らしくあれる、心地よいコミュニティに居場所を見つけることが、第一なんだろうなあと。
何度かつぶやいていることではあるが、多様性を認め合うというのは、何でもかんでも自分の器に入れて飲みこもうとするのではなく、自分の器と、他人の器の中身を混ぜようとしないことに、キモがあるんじゃなかろうか。
他人の気持ちなんて、本当のところは分かりっこないし、どれだけ自分にとって好ましくない価値観でも、それをジャッジする権利なんて、誰にもありゃしないのよね。
色んな考え方の人がいる。
できるだけ、気の合う人とお付き合いしたいもんだ。
言葉にすると、たったそれだけのシンプルなことなのかもね。
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