どうもみなさん、こんばんは。
今日も元気に生きづらいですか?志乃です。
今回もまた例によって、ツイートのまとめ記事とさせていただきます。
宜しければお付き合いください。
見栄を張るより、謙遜し過ぎるより、等身大&自然体がいい
経験上、自分を実際よりも良く見せようとするとロクなことにならないと分かった。逆に、実際よりも悪く見せようとしても損をする。かといって、等身大な自分は掴みづらい。いつも自然体に見える人は、いつもリラックスしている人だな…
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年8月24日
ありのままの自分を知り、あるがままを認めている人は、いつでも自然体でいられる気がします。
それがなかなか難しいんですが。
拒絶するよりも、受け容れたり、受け流すほうが楽にはなれる
嫌なことを受け容れたほうが楽になれるっての、皮肉なもんだなあと思う。受け容れるまでが苦しいし、受け容れないほうがいい場合もあるけど。楽になれるのはそうなんだよな。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年8月25日
もちろん、他者から不当な扱いを受け、生命や人権が脅かされているような時はこの限りではありません。
ただ、自分自身や他人に向けた過度な期待や、それが思い通りにならないことに対する怒りや悲しみなど、「自分自身ではどうにもできない」ことへの執着は、とっとと捨ててしまった方が、心が楽にはなりますよね。
20代のわたしがあんなに苦しかったのは「諦めの悪さ」が原因だったのかもしれない。諦めが悪いための怒りや悲しみ。プラス、自他の境界線のあいまいさ。今もそういうところはあるけれど。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年8月25日
特に、他人や社会は、まず自分の思い通りにはならないんですよね。
自分をとりまく世界が、理想的でないことに対する悲しみと、怒りと、執着。それに加え、何より「ふがいない自分自身への怒り」に、振り回された10年だったような気がします。
自分ではどうにもならないことは多くあるのに、それを受け入れることができず、「努力で何とかすること」を、諦められませんでした。
そしてその考え方の癖は、今もかなり残っています。
諦めることは、悪いことなのか
とにかく「諦めないこと」が美談として語られがちですし、「理想を追い求め、欠点を克服するべきだ」という風潮があるような気がします。
「諦めること=悪」ではないし、むしろ諦めないことで、自分や他人を追い詰めることにもなる。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年8月25日
このブログでも何度も書かせていただいていることですが、自分に厳しい人というのは、他人にも厳しくなってしまうものだと思います。
自分自身の「理想像」を諦められないと、他人にも「理想的であろうとする姿勢・努力」を求めてしまうんですよね。
そしてそういう風に考えがちな人は、自分は自分、他人は他人であるという、”自他の境界線”があいまいな可能性が高いです。
理想を諦められないことで、自分や他人が「自然体であること」を認められなかったりする。
”ヒトはあるがままで既に完璧である”、という話もあります。
自分や他人に、実際以上のものを求めて、期待をするからしんどいし、応えられないと苦しくなる。
「諦める」と「認める」は、実は近いところにあったりして。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年8月25日
「諦める」と聞くとどうしてもネガティブなイメージがありますが、実はそうではなくて、等身大の姿を理解し、自分や他人の、あるがままを受け入れられるようになり、自然体でいられる、ということなのかもしれません。
わたしも頑張ります。
現場からは以上です。
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