自分を実際よりも大きく見せたくなった時。
実はとっても「ありのままの自分」に自信がない時。
他人に対して、何かケチをつけたくなった時。
他人のやることが、気になって仕方がない時。
全て、自分自身が「のびのびと生きていない」時なのかもしれない。
「なんでも自分に都合よく願いが叶うとして、自分はいったい、何を望むのか?」
そう問いかけると、自分自身の抑圧された願望が浮かび上がってくるんだそう。
定期的に、自分に問いかけるようにしています。
もし許されるのなら「自由でいたい」
それが私の願いなのかもしれないな、と最近よく思います。
でも「そんなわけにいかない」「そんなことを願ってはいけない」という気持ちもある。
現代日本で生きていると、不自由さを感じることばかりで、何のために生きているのか、分からなくなる時もあります。
私の場合、育児なんて特にそう。出産してからは、すべてが子ども中心の生活。
それはそれで幸せなことでもありましたが、それだけでは満たされない自分がいる。
自由を求めることは「わがまま」なのか?
私たちは、「わがままを言っちゃいけないよ」という教育を、家庭で、学校で、社会で、受けてきた。
私は母親です。自分のことよりも、娘のことを考えるべき立場の人間だと思っています。責任もある。いざという時は、自分を犠牲にしてでも家族を守る覚悟もある。
でも、「自分のために、のびのびと生きたいだなんて、そんなこと願っちゃいけない」なんて思いつつ、自分の胸に問いかけてみると、本心ではやっぱりそう願ってしまうのです。
心のどこかに強い義務感がある。
私にとって子育ては、「子どものためにやるもの」であって、「自分のため」ではないと、無意識に思っている部分もあるのかもしれません。
「こうあるべき」と思ってしまうのは何故か
頭が固くなって、視野が狭くなってしまっている。
世間体もあるのかもしれません。
特に、娘を産んでしばらくは、「世間の目」が怖くて仕方がない時期がありました。
ネットに溢れる冷たい意見を見て、悪影響を受けていたのだと思います。
電車の中で、娘が泣いたらどうしよう、白い目で見られたらどうしよう、とハラハラし、家の中では、隣の部屋の人から夜泣きのクレームが来たらどうしよう、とハラハラし。「なんだあの対応は!これだから最近の親は…」と思われるのが嫌で、心が休まる日がありませんでした。
私の場合は、出産後、赤ん坊だった娘の世話をしながら、書籍「陣痛なう」の執筆作業を平行して行っていたので、さらに「世間の目」に対するプレッシャーが強まっていました。エッセイは、生き方を発表するようなもので、この本を出したら、世間からどう思われるだろう、とか。激しくバッシングされるんじゃないだろうかとか。そうなったら、とても嫌だな、と心配してばかりいました。
転機が訪れたのは、つい最近
なんやかんや、ありまして。
関係者の中で、「誰も悪者になりたがらなかった場合」、どうなるのかという体験をしました。詳しくは書きませんが、そりゃあもう、大変なことになりました。
「他人からどう思われたいか」に囚われ、八方美人になり過ぎると、最初は誤魔化せても、どんどん信用を失っていくんですよね。
「悪く思われたくない」という気持ちを悪用され、都合よく利用されることだってある。
「実際よりも、よく思われたい」と思うと無理が出る
その無理や、実際との差は、大人相手には簡単に見透かされてしまう。
化けの皮がはがれた時、恥をかくのは他でもない自分。
運よく隠し通せたとしても、ずっと演技や無理をしていなくてはならなくなる。
自分を客観視できず、「私はもっと評価されるべきなのに」なんてフラストレーションを溜めてしまうことも。
もしかしたら、周りに起こっている現象は、なるべくしてなっているもので、不当なものではないのかもしれない。
みっともなくても自然体でいることでうまくいく
自然体でいるように心がけると、そんな自分をバカにする人がいたとしても、不思議なもので、「でもまあ、これが私だしな~」と受け流すことができるんですよね。
「もっと自分は素晴らしいんだぞ!」ということを周囲に知らしめたいという気持ちが自分にあると、「なにおう!?」と頭に来てしまう。
誰にどう思われようが、どうでもいい。自然体でいたい…と思うようになると、虚勢を張ったり、自分をより良く見せる必要がなくなるので、バカにされてもあまり気にならなくなりました。
カッコつけると、カッコつけてることがバレた時に恥ずかしい
これ、子どもの頃から思っていて、そうはなりたくないな~なんて思っていました。
飾らない自分でいたいな、なんて思っていたけれど、実際は気づかないうちにバリッバリに飾っていたんですよね。
「ちゃんとした母親だと思われたい」という気持ちも、同じようなものかもしれないな、と思います。
ありのままの自分を認めて、好きなように生きる
これがここ数年の流行りというか、キーワードですよね。
そういった題材の映画であるとか、CMがヒットするというのは、現代人みんなに潜在的にそういう願望があるということ。
で、実際はそうできていない人が多いからこそ、そういう作品がヒットするのだということ。
「それができたら、苦労はしない。」
そう思う人も多いのではないでしょうか。私がそうなんですけどね。
でもきっと、それが出来た人から、自由になっていけるんでしょうね。
何事もいいとこ取りはできませんから、そういう生き方をしない人はしない人なりに、しないことで得るメリットを優先させているのかもしれません。
どんなことにもメリット・デメリットがある
私はどちらを選ぶのか。
「良い母親」って、なんなのか。
そう「思われたいから」目指すのか。
そう「ありたいから」目指すのか。
そう「あるべきだから」目指すのか。
余計なものをそぎ落して、自然体の自分で生きようとした時、本心が望む「願い」や「目標」は、いったい何なのか。
自分にとっての幸せとは、何なのか。
それは、誰かに何かを言われて変えるべきものなのか。
綺麗ごとだけで生きてはいけないけれど、綺麗ごとなしにはきっと満たされない。
人からどう思われたいかを捨てると、自由になれるけれど、自由になる代わりに失うものも確かにある。
自分だけが幸せになったって、満たされないものもある。
自分の落としどころは、どこなのか。
「お母さんが笑顔でいることが一番」なんて専門家の先生は言うけれど
この、情けなくて、自分勝手な私が、「ありのまま生きる」ことが、本当に娘のためになるのだろうか?
「娘(旦那)のために生きたい、幸せにしたい」
「でも、自分も自由でありたい」
それが相反するように感じるから、私は苦しいのでしょうか。
落としどころが見つからないから、不安になるのでしょうか。
これからも何度でも問いかけるテーマになりそうです。
あなたの願いは、なんですか?
現場からは、以上です。
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