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私の体験談は、何の役に立つのか

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誰も救わないのかもしれないし、何の役にも立たないかもしれないし。

むしろ逆に、偏見や悪いイメージを広める危険性も大きく。

カミングアウトして発信する側の責任について、仕事の依頼が来る度に、考えてしまう。

当然のことだと思いつつ、同時に、それ自体おかしな話だろうという思いもある。

「ADHDと名乗るからには、他のADHDの迷惑にならないように、ADHDとして理想的な振る舞いをしなければ、ADHD全体のイメージが悪くなる。」

この、ADHDを、同じく私の属性である「AB型」に置き換えると、こうなる。

「AB型と名乗るからには、他のAB型の迷惑にならないように、AB型として理想的な振る舞いをしなければ、AB型全体のイメージが悪くなる。」

うーん、ナンセンス。

ただ、これを「女性」や「母親」に置き換えると、どうだろう。

「女性と名乗るからには、他の女性の迷惑にならないように、女性として理想的な振る舞いをしなければ、女性全体のイメージが悪くなる。」

「母親と名乗るからには、他の母親の迷惑にならないように、母親として理想的な振る舞いをしなければ、母親全体のイメージが悪くなる。」

こうなると、なんだか「納得はいかないが」「現状を考えると」「一理ある。」と思ってしまうのは、何故だろう。これが偏見や差別の感覚なのだろうか。

とある人気者が「ADHDなのではないか?」ということで話題になっていた。

それに対するファン達の「弁護」に、世間の大多数が今、発達障害をどのように理解しているのかが垣間見えた気がした。

「本当にADHDなら、こうなはずだ」と言う内容を見ていると、中には「なんだそれw」と笑ってしまうものもあったのだが、笑っている場合ではないのだろうね。

「知り合いにもADHDがいるけど、こんなもんじゃなかった。」と、ADHDには個人差があるということを、多くの人が知らない

「ADHDなら、こんなことは出来ないはすだ。」と、ADHDを誤解して、能力を低く見積もっていたり、

「ADHDなら、集中できないから無理なはず。」と、「ADHDとは注意力散漫で、集中できない。」という知識だけがあり、好きなことになら驚異的な集中力を発揮する「過集中」を知らない人が多いということが分かった。

そもそも、「ADHDって何?」と、存在自体を知らない人も。

だけど、自分自身のことを振り返れば、「大事な人」を好きだと思う時、発達障害があるかどうかは、どうでも良かったりする。そこに、理解を超えた愛を感じたりもするんだ。

「欠点を含めて愛してくれる誰かがいて、自分のことを好きでいられるのなら、誰に何を言われたって本当はどうでもいいし、それで満たされるのではないか」という思いがある。

私がいつも「志乃さんのADHD当事者としての体験を、記事にしてください」と依頼を頂く時に躊躇うのは、それが理由なのかもしれない。

「知り合いにADHDがいますけど、こんなもんじゃないですよ。(だからADHDなんかじゃありません)」が横行している現在、「志乃さんもADHDですけど、そんなもんじゃないですよ。」に代わってしまうだけなら、世間様のご迷惑になってしまうだけなんじゃないのか。

ADHDは個人差が激しく、私のことを書いたとしても、それは私のことでしかない。

子育てもそうだけど「私だけじゃないんだ…!」と思えるだけで、励まされたり、元気になったりするし、それが驚くほど大きなパワーになることがある。

ただ、そうやって、「わたしと症状の重さが同程度の」当事者の方を励ますことができたとしても、その方にとっての「大事な誰か」や、それ以外の方に誤解を与えたり、世間への悪影響の方が大きいのなら、やめちまえって話だ。

個人差が激しい故に、色んな思いを抱えた当事者がいる。

その方々の日々の努力を踏みにじるようなことをしてはならない。

だからこそ、「私の話だけじゃ足りない」

「実は私も…」と、自分の話をできる人が増える誘発剤にはなるかもしれない。

私ができることと言えば、その程度なのではないか。

で、だ。

需要があるかというと、そういうわけでもなさそうなのが、難しいところでして。

売れるか売れないか、面白いか面白くないかで言えば、コミカルでキャッチーなコミックエッセイを量産できるようになった方がいいのかもしれないし、作家としての需要があるのはむしろ、そちらかもしれない。

私の体験談は、誰を救うのか、何の役に立つのか。

人の役に立ちたいと思うが、きっとそれが全てではない。

私にとっての「大事な人(=家族)」だって守りたい。

このブログだって、そんな大層なことを考えて書いているわけではなく、ただ「書きたい」とか「言いたい」とか「伝えたい」という気持ちが大きいんだけどね。

「それって、どうなのよ?」と、思ったことを言わずにいられないのも、私のADHDっぽさであり。それら全てを内包して、商業作家として生きていくことを目指すなら、今後どうしていくべきなのか。

作家になることは、自己顕示欲と、承認欲求にまみれていた、幼い頃からの夢であったものの、最近はどうにもそこに価値を見出せなくなっている。

現場からは、以上です。

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