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普通のママを目指すということ

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「完璧なママになれないのは分かっている、『普通のママ』になりたい」

 

娘を産んでから、ずっとそう願ってきた。このブログの説明書きにも、「平均的なママを目指すブログ」と書いてある。「育児は完璧を目指してはいけません」と、あらゆるところで見かけるけれど、自分はそんなレベルにすら到達できておらず、このままではいけないと、気持ちばかり焦っている。

 

「100点取れるなんて最初から思ってないんです、平均点が取りたいんです」

 

東京で孤独な育児をしていた頃、通っていたカウンセリングでそう訴えた私に対し、カウンセラーはこう言った。

 

「それは誰が点をつけるの?平均点って、何?」

 かつて親を恨んでいた自分自身のように、将来の娘に恨まれたくなかったのかもしれない。幼少期に受けた心の傷が、成長してからどのように作用するのか、被害者側からの知識も豊富だった。『このままでは(娘が)私のようになってしまう』という不安で頭がいっぱいだったように思う。

 

『毒親になりたくない。まともな親になりたい。』

 

その頃はまだ、自分の両親を「毒親だ」と思っていた時期で、和解はもちろん、連絡も一切していなかった。反面教師にするはずが、子育ての現実は厳しく、ままならない自分に、いつも焦っていた。

 

「あなたとお母さんは違う人間だし、あなたと娘さんも違うのよ」とも言われたけれど、だからと言って毒親のようなことをするわけにはいかなかった。「乳幼児に対して、こうしてはいけない、ああしてはいけない」という知識が蓄積されていったけれど、それら全てを守ることは困難で、脅迫されている気分だった。

専門家にいくら頑張っていると褒められても、自分の育児を認められなかった。

 

「普通になりたい」。

思えば子どもの頃から、いつもそう思っていた気がする。

皆が当たり前にできることが、できない子どもだった。

普通になりたい。普通でないと、バカにされたり、いじめられてしまう。

 

でも、普通ってなんだろう。

 

自分では普通にしているつもりなのに、「天然」「不思議ちゃん」「変な子」だと笑われる。普通にしたくても、何がおかしいのかが分からない。

ただただ、正体不明の違和感と疎外感が常にあった。

 

『発達障害』という言葉を知ったのは、大人になってからだった。

 (※天然と呼ばれる人たちが皆そうだと言うわけではないです)

 

日本社会においては、「普通であること」が一番の自衛になる。

集団の中で悪目立ちをした者は、どこへ行っても疎外される。

「あの人はそういうキャラだから」という、ある種の治外法権が適応される環境下に自分を持っていければいいが、そうでない多くの場合、集団から浮いてしまう。

 

学生でなくなっても、社会人でなくなっても、どこかに属する限り、生きている限り、ついて回る問題。

ママ同士の交流も、もちろん例外ではない。

私が集団に馴染めないせいで、娘が孤立するのだけは避けたかった。

 

「せめて、普通のママにならなくちゃ」と、いつも焦っていたけれど、私は普通のママになって、一体どうしたかったんだろうか。

 

私は、そうすることで娘を「普通に」育てたいんだろうか。

「普通の子」として、育っていって欲しいんだろうか。

 

それは結局、「自分は普通ではない」ということからの現実逃避(自己否定)や、自己投影でしかないのではないか。

それは娘自身が娘らしくあるための「普通でない一面」を、抑圧することにつながらないだろうか。

 

娘は、日本全国、たくさんの人から祝福を受けて、この世に産まれてきた。

旦那と相談して、「周りに人が集まる、優しくてあたたかい子になって欲しい」という願いを込めて、名前をつけた。

 

私は、娘にただ、孤独になって欲しくなかっただけなのかもしれない。

 

産まれてからずっと抱いていた母の懸念をよそに、現在娘は、物怖じしない、積極的で社交的な3歳児に成長した。これまでに、娘の発達に関して、本当に色々な心配をしたけれど、今のところ全てが杞憂に終わっている。でも、これからは分からない。

 

「普通の母親になりたい」という願望の底にあるものが、「定型(発達障害ではない人のこと)の人のように振る舞いたい」なのか、「母親として最低限のことをこなしてやりたい」なのか、自分でもよく分からない。いや、両方なような気もする。

 

自分はどこか異常なのではないか。

 異常だとして、それはどうしたら正せるのか。

正さなかったとして、これからどうなってしまうのか。

 

世間一般の「ちゃんとした母親」にはなれそうもないという予感だけが、今ここにある。

 

そもそも、「自分は普通じゃない」なんて考え自体が、きっと盛大な勘違いなんだろう。だって、よくある話だし、平凡もいいところで、自意識過剰なのかもしれない。

むしろ、そうであって欲しいと思う。

自分のようになって欲しくないという気持ちから、娘の自己肯定感を育めるよう、勉強と努力はしてきたつもりだが、母親としてちゃんと出来ていないことの方が多くて、どうにも不安が募る。

 

私は今、市の発達障害支援センターに通っている。

異常ではないなら、それはそれでいいし、改善できるところがあるのなら、していきたい。

 

自己肯定も、自己否定も、自己嫌悪も、全部、「自己」完結。

肝心なのは、娘がどういう子で、どんな風に感じ、育つかということ。

大事なのは、今、目の前の娘と向き合うこと。

今の娘に、必要なことを、親として可能な限りしてやること。

 

現時点では本当にダメダメだけど、ひとつずつ片付けて、一歩ずつ前進していくしかない。

 

「平均点ママを目指す」というスローガンを今後も変えるつもりはないけれど。

赤点だ、平均点だ、満点だというジャッジを下しているのは、「世間の人」なんていうどこの誰だか分からないうすらボンヤリしたものでも、「将来の娘」という想像上の生き物でもなく、いつだって「現在の自分」だということを忘れないようにしたい。

 

いつか、娘に責められることになっても、「出来る限りのことはしたつもりだよ。ごめんね」と、胸を張って言えるように、今やれることをやるだけだ。

 

誰に何を言われても、その時の自分に出来ることを、出来る範囲で、出来る限り。

これ、うつ闘病期にも、繰り返し自分に言い聞かせていた言葉です。

 

そんなことを、繰り返し、考えています。

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