どうも。困ったちゃん地区ブロック代表(※自称)、志乃です。
日々、ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、心よりお詫び申し上げると共に、厚く御礼申し上げます。何といいますか、お気持ち、お察し致します。
さて。前々回、このような記事を書きました。
この記事に対し、「普段、苦しめられている者としては、なかなか受け容れられない」という主旨のご意見をいただきまして、「そりゃそうだよな。」と思うと共に、「じゃあ、どうすればいいのか?」ということを、自分の経験を踏まえながら、考えてみることにしました。
「ありのままの自分を認める」ことと「ありのままの自分を認めろ」と周りに主張することの違い
「変わってほしい」という他人の期待に、応えるのも応えないのも自由。ただ根底に「自己肯定感」がないと、「他人のために」歪んでしまう。「ありのままの自分を認めよう」という話と、「他人もありのまま認めろ」という話は別のもの。
— 志乃 (@shinoegg) 2016年6月9日
自分は自分、他人は他人。他人の受け取り方は自由で、コントロールはできない。
(この人も発達障害なんだろうな〜)と勝手に感じてる知人がいる。知識と能力のある方で、とても尊敬している。でも困っちゃうところもある。「私はこうだから(そちらが合わせてくれ)」という態度に、疑問と反感を持つ時もある。でもその人に、変わって欲しいというわけでもない。人のこと言えないし
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
そんな権利も義務もないし、赤の他人を「変えたい」と考えること自体、おこがましいと感じる。
自己を認めることは、共存する努力の放棄なのか?
本人が「ありのままの自分をまず認めよう」とする時、迷惑をかけられたほうは、たまったものではなくて、「特性」を言い訳に、共存する努力を放棄しているように「見える」。社会の中で生きていくには、社会性と協調性が必要なことに変わりはないし。
— 志乃 (@shinoegg) 2016年6月12日
本人がどれだけ裏で努力し、苦悩しようとも、他人の目にうつるものは、表に出ているものだけになってしまうし、判断材料は人それぞれ。
「印象」が、「心象」を左右する。
そして、他者の人間性を判断する時、事実がどうかよりも、心象が重要視されることが多いように思う。
当事者として、逆の立場ならどう考えるか?
わたしは逆の立場として、その方にどうして欲しいと思うのか、考えてみた。どうあれ、その方を尊敬する気持ちに変わりはない。ただ、何かあった時に「ごめんね」と「ありがとう」があればいいと思った。単純に好きなんだよね、その人のことが。
— 志乃 (@shinoegg) 2016年6月12日
ひっくるめて、魅力的なのですよねえ。
その人がとても苦しんでいるのも知っている。それでも一言いいたくなる時もある。でも、わたしも多大な迷惑をかけていて、それでもいつも、笑顔で許して、認めてくれる。わたしはまだまだだなあと思った次第。
— 志乃 (@shinoegg) 2016年6月12日
「欠点の指摘」は、多くの場合、相手を傷つけてしまう。
そして、欠点は見方を変えると「長所の裏返し」でもあり、自分がその人の欠点だと感じたものでも、他の人にとってはそうではなかったりする。
「相手のために言ってあげたい」と思う時、人は傲慢になりやすい。
そんな時こそ、価値観は人それぞれ違うということを頭に叩き込んだ上で、相手に対する思いやりと、敬意を持ち、タイミングに十分な注意が必要になってくる。
(わたしは衝動的にペロッと言ってしまって、しぬほど後悔するタイプです)
「違い」を否定しない
義実家の皆さまが、「ちょっと個性的で困ったところもある人」に対して、当たり前のように「まあ、◯◯さんだからね。」という一言で、和やかに済ませていて、本当に素敵だと思った。その一言には、「でもあの人すごいところあるし」という共通認識が含まれていて、敬意が感じられた。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
「そういう人だからね〜」で、それ以上、言及しない。そして、それでいいという空気。それが当たり前の空間。旦那があんなふうに育ったのも納得。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
「他人は他人、自分は自分。」を徹底すると、他人の価値観がどうあろうと、自分への影響がないため、他人を否定する必要がなくなるのかもしれない。
自他を同時に尊重する
義実家には、うちの実家にはなかったもの(自他を同時に尊重する文化)が、当たり前のように溢れていて、初めて訪れた時、「ここんちの子になりたい」と思った。旦那も「志乃にこういう家庭(世界)もあると見せてあげたかった」と言っていた。国内カルチャーショックだった。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
そんなわけで私は旦那も義実家の皆さんも、心から尊敬している。すごく自由で、あったかい。でも、何も苦労がないかと言うと、そういうわけでもなく、マイペースさに振り回されることもある。旦那は自己完結しがちで、外へのアプローチの必要性を感じないのか、表現を怠ける傾向。
旦那「うんこー!」— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
#今日の35歳夫
私「ちょっと褒めて慰めてくれませんか」
夫「わかった!」
私「……」
夫「志乃は、すごい!」
私「…」
夫「…」
私「…え、他には」
夫「すごい」— 志乃 (@shinoegg) 2016年6月12日
すごい
でも旦那はこれで、学生時代に大きな作文コンクールで賞を取っていたりするので、表現力がないのではなく、単に「他人に分かって貰うための努力の必要性を感じてない」のだと思う。「俺が分かってればそれでいい」とよく口にする。
— 志乃 (@shinoegg) 2016年6月12日
「うんこ」と「すごい」しか言わない人みたいになったので、旦那の名誉のために一応書いておきました
承認欲求の大小と、表現力の関係について
「分かってほしい」という欲(承認欲求)に、かなり差があるんだろうなあ。承認欲求は創作活動の原動力みたいなとこあるし。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
自己肯定感が高く、自他の境界線がハッキリしている人は、自己評価に、他者からの評価が関係しない。つまり、他人に認めてもらう必要もない。
何かにつけて掘り下げたがる私と、黙々と目の前のことに取り組む旦那。旦那のいいところは、その「違い」をバカにぜす、面白がるところだと思う。
いやどうだろう、バカにしてるかも。たまに。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
鼻で笑われます
正反対なのに一緒にいて居心地がいいのはなんでだろうなあ。違いに対して、敬意が感じられるからかな。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
旦那の考え方はとても参考になるし、重要だと感じる。だから誰かに伝えたくなるんだけど、「承認欲求がうすく、自他の境界線がはっきりしている」本人達は、承認欲求が薄いゆえに、「伝える」ということを、あまりしないような気がする。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
外に向けて分かってもらう必要がないんでしょうね。
人間に承認欲求がある意味とは。表現はなぜ必要か。相互理解のためなのかな。1人で生きていける人なんていないし、人間は社会の中で生きている。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
自己完結で終わってしまうと、そこから発展しにくい。
そうやって考えていくと、「みんな違って、みんないい」って、こういうことなんだろうなあと思う。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2016年6月12日
色んな人間がいることで、社会のバランスが取れているんでしょうね。
どんな人間でも「ありのまま」「全て」受け容れなければならないのか?
多様性を認めるために、重要になってくるのは「距離をとること」。多様性を認めるというと、自分の領域内に全て受け入れなければならないと考えがち。でも多分、そういうことではなくて、自分の領域も、相手の領域も、侵害しないし、されないということだと思う。
— 志乃 (@shinoegg) 2016年5月11日
全ての他人を受け入れろ、というのも無理な話。
「干渉しない」という選択の自由がある。
関わる人間は、ある程度、自分で決められる。「合わない人間とは、距離をとる」というのが、自分と相手の価値観を尊重することに繋がるのだと思う。
自己肯定感がある人は、コミュニケーションが上手
「他人は他人」と尊重するためには、「自分は自分」と思うところから。
結局、このブログで何度か主張している答えに行き着いてしまうのですが、やっぱりこういうことなのだろうなと思います。
ありのままの自分を、まずは認めてあげられるといいですね。
わたしも練習中です。
コメント
障害を受容して克服する為には、障害を仕方のない事として受け入れ、障害を持っているという事に囚われずに、自分なりの方法で、社会の中で普通に生きていく事が大事だと思います。(ある研究者の受け売りですが。)
そうなると、「障害の自己受容」ってのは、自己の内面の課題なのだと思います。
だから、障害を自己受容するという事と、「俺様は障害者だ!特別なんだ!」と、周囲に承認を強要するという事は、真逆の境地という事になるのだと思います。
自分自身からは逃げられないですから、ありのままに受容する。(「俺様は特別だ!」は、実は本当の自分から目を背けている。)
そして、他人とは適切に距離を取りながらうまくやっていく。
そういう覚悟をしていても、傍に居て欲しいのが、受容したいのが、承認して欲しいのが、伴侶だという事なんでしょうね。