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「発達障害である」ことって、本当にそこまで卑屈にならなきゃいけないこと?

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 どうも。志乃です。

今日は、表題の件につきまして、多くの方から反感を買うのを覚悟の上で、言いたいことを書かせていただこうと思っております。どうぞ、お手柔らかにお願い申し上げます。

(追記:私の悪い癖が出た、だいぶキツイ物言いの厳しい内容になっております。閲覧注意です。)

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 自分のことを「欠陥品」「出来損ない」と感じる成人発達障害者が約7割

…という、アンケート結果をTwitterで見かけまして、いてもたってもいられず、思うことをツイートしていましたらば、止まらなくなってしまいまして、ブログの記事にまとめようと思った次第でございます。

いや、こちらのブログでも繰り返しお伝えしてきましたように、成人発達障害者の多くが、家庭、学校、職場と、環境の中で、人間性を否定され続ける機会が べらぼうに多く、必然的に「自責の念」や「自己否定」を抱えて過ごすことになりがちなんです。

それもよく解る。

分かるんだけど、現在の私はどうしても「発達障害者=欠陥品」という文脈に触れると、こう、ザワついてしまうんですよね。「オイ、それはちょっと聞き捨てならねぇぞ」と。

まあたぶん、私は昔から目立ちたがり屋で、身の程しらずのお調子者だったんで、「変わり者」であることが嬉しくもあったんです。

そんな風に思えるのは、周りのおかげもあるんだろうし、複雑な家庭環境に育ったものの、生育環境は、自分が思うほどには悪くなかったんだと思います。

色んな意味で、私は自分が思っていたより恵まれているのかもしれないと、よく思うんですよね。

 いやあ、バカのくせに、バカでしょう?…いやね?何を隠そう……バカ…なんですよ…。

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発達障害支援センターでいただいたIQ検査結果。何度も見返すためシワシワ。

 

うつ病を患い、何年も引きこもった後、この検査を受けて、当時の私は衝撃を受けました。「なんにも得意なことがない、人間のクズ」だと思っていましたが、なんと、得意なことが4つもあった…!今まで誰に長所を褒められても、ザルに水を流すようだったのに、「数値」になって初めて、自分の長所として受けとめることができた。自分の存在価値が、科学的に証明されたような気がして、嬉しかったんですよねー。

 

自分の良さを、自分が一番よく解ってないのかもな、と思いました。

 

わたしの中に、松岡修造な自分と、卑屈な自分が同居している

うつ闘病中は、この「もう一人の自分」と、文字通り「生きるか死ぬか」の真剣勝負(自問自答)を心の中で日夜くり広げ、松岡修造な私が勝ったからこそ、私は今ここにいます。

この「もう一人の卑屈な自分」が、本当に手ごわくて、もっともらしいことを言いやがる。「お前なんか欠陥品なんだ」「死んでしまえ」と、落ち込む度に、そそのかしてくる。このもう一人の自分(以後、シャドウとします)は、これまで自分が関わってきた人物に言われたことだったり、失敗談だったりを、何度も何度も、弱った時にフラッシュバックして見せつけてくる。

まあでも、生きてかなきゃなんないし

子どもいるし。

言ってても仕方ないし。

(なりたくてなっているわけじゃないけど)卑屈になってても何もいいことないし。

趣味で心理学を学べば学ぶほど、「自己肯定」や「自己受容」が、どれだけ大切なことが分かってくる。

先日、成人ADHD向けセミナーに参加した際にも、「自尊感情をどれだけ高められるか」か大事だという話を聞きました。

言うは易し、行うは難しに尽きる

でも実際、生きづらさを緩和しようと思ったら、その道を目指すしかないんだと思いました。

凹があるなら、凸もあるさ

 いやーーー…もちろん、「距離置きたいな~~~」とか思っちゃう人もいますけども、それは単に「私に」合わないってだけの話で。

少なくても、わたしは今まで、成人発達障害の方にお会いする度、「人間味があって」「個性的で」「面白いな」と感じることが多々ありました。

 

凹があるなら、凸もあるのではないか。

それが人間なのではないか。

低空飛行でトゥーーーーーーーーーーーーの人、いたら逆にお会いしてみたい。

欠陥がない人間が、もしいるとしたら、むしろその人が欠陥品になってしまうのではないか、とも思う。

 

私よりも、ずっと苦労なさっている当事者の方にとっては、「お前に何が分かるんだ」という話だと思うし、私よりも恵まれた状況にいる方々にとっては「甘えている」と感じると思います。個人差が激しく、環境次第で大きく左右されるのが、発達障害の難しいところで。

最初から私に分かるわけなくて当然なんで、本来ならば、人様に偉そうに口を出すべきではない。

「何の長所もない人間なんていないよ!絶対なんかあるって!!」と言いたいけれど、最悪の状況下に置かれている人を目の前にしたら、そんな言葉をかけることすら、躊躇してしまうかもしれない。

でも、それでも言いたい。

 

「本当の、本当に?あなたは欠陥品なの?本当に、何の価値もないの?」

なんかあるでしょ、得意なこと。

それを大切にできたら、いいよね。

「何にも得意なことなんかなくったって、あなたはここに居ていいのよ」って、本当は親に言ってもらいたいところでしたけども、それはまあ、仕方がない。 

 無償の愛は、誰からも貰えないものとして、もう、割り切っていこう。

 親や教師から、繰り返し否定された言葉は、心にこびりついて、呪いの沼にハマり込んだようになってしまう。

自分で抜け出すのには相当な労力がいるし、シャドウは沼の底から引きずり込もうと足を引っ張ってくるし、同じ呪いがかかった仲間の存在に安心して、沼の中で安住してしまうこともある。

そういう生き方を否定はしないが、それは果たして、本当に望んでいることなのか。

 

 発達障害者は劣っていると、一体いつ、誰が決めたの?

「発達障害者には天才が多い」を、否定したくなるのは何故?

あなたは本当に「凡人」なの?

「普通じゃない」ことに悩んでいるのに「凡人」なの?

あなたは本当に「無能」なの?

あなたは本当に「無価値」なの?

 

「個性がない」とか「普通の人間である」ということに大きな劣等感を抱き、「目立つ人間」に嫉妬心を抱く人間もいる。(本当に「何の個性もない人間」が存在するのかと聞かれると疑問だが)。

 

人間の優劣って、一体、誰がどんな風にして決めるのだろう。

経済力か?生活力か?それとも、コミュニケーション能力か?

それら全て、世界から見たら「日本」という狭い世界での価値基準かもしれない。

そう考えると、アホらしくなって来ないか。

 

どうしたら私たちは、少しでも気持ちを楽にして生きられる?

どうしたら自信を持てる?

得意なことは何かないか?

好きなことは何かないか?

出来ることは何かないか?

 

本当の本当は、凸の先がとんでもなく尖っているのではないか?

武器として勝負できるくらい、凸を研ぎ続けて、凹は誰かの力を借りたり、自分なりに盾を作ったりできたらいいのではないか?

 

きっと、なんかあるよね。

今は見つからなくても、死ぬまでになんか一つくらい、見つかるかもしれないし。

本当は何にもなかったとしても、何かあるかもしれないと信じたまま、死んでいきたいなと思う。

わたしは卑屈な自分を受容できない

ここまで色々書いてきましたが、裏を返せば私も、自己受容ができてないから、こんな記事を書くんですよ。「自分は自分、他人は他人」と、自他の境界線がハッキリしてたら、こんなこと書く必要ありませんからね。

私は「自分に厳しくあろう」とするあまり、他人にもそれを求めたり、強いプレッシャーを与えることがある。

 自分がそう思うなら、勝手にそうやって生きていきゃいいのに、卑屈になっている当事者を見ると、どうにも心がザワついてしまう。

「卑屈なもう一人の自分」と今も闘っていて、その存在が許せないから、同じようなことを言っている他人を見て、許せないと思うんですよね。

究極的なことを目指すなら、「どんな自分も自分である。」と認めてあげるのが理想。それが、健全に生きるために必要な「自己肯定感」ってやつなんですよね。

 

まとめ

みんなちがって、みんないい。

卑屈になる時があってもいい。

欠陥がない人間なんていない。

程度の重さで存在価値を図るべきものでもない。

きっと、いいところもたくさんある。

「自分は欠陥品だ」なんて、真面目だからこその悩みだ。頑張り屋で、素敵な人ばかりなんじゃないのかな。

分からないけれどね。

そうであって欲しいという、単なる私の願いみたいなものなのかもしれない。

 

これを読んだあなたに、何かいいことありますように。

現場からは以上です。

最近の私の考え方のベースにアドラー心理学があるけど、これって合う合わないあるよね…

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コメント

  1. この記事で、自分が感じてきたことが上手く言葉に表されていると感じました。
    自分も責任能力の点から自分が欠陥品であるとついつい考えがちな人間ですが、変わり者だったり、出来ないことが多かったら自分を肯定してはいけないのか、幸せを感じる権利がないのか、尖ったものを活かせないかずっと考えて来ました。
    私も、発達障害を抱えていることが自己評価を全面的に諦める理由にはならないと思います。
    障害者だって幸せを求める権利はあるのですから。
    近い考えを持っていらっしゃる方に出会えたことで、救われたような気持ちになりました。この出会いに感謝します。
    P.S.
    低い自己評価は、身体障害と異なって、適材適所、生活を立てやすく活躍できる分野がいまだに確立されていないことにも一因があるのではないかと考えます。

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