どうも。志乃です。
突然ですが、「妊婦様」という言葉をご存知ですか。
妊娠しているというだけで、他人に対して、尊大な態度を取る女性のことを指すようです。その中にはとても図々しいタイプもいるようで、度々話題にのぼります。
ネットでは、そのような女性のふるまいを見て、「最近の親はこんなんばっかり!」と反感を持ったり、「こんなのと一緒にされたくない!」と憤る女性の姿を多く目にします。
今日は、そのことについてのお話です。
「これくらいやって当然」と思う人は不幸体質
「これくらいやって当然」って、怖い考え方だよな…。①自分の感覚が正しい、②自分にはその権利がある、③こちらに合わせるべきである、の最低でも3つの前提がある。その前提を疑いもしないと、感謝の気持ちがどんどん薄れてしまうんだろうな…
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
「人は何かに心から感謝した時、幸せを感じる」というのが本当なら、「これくらいやって当然」と言って感謝する力が弱い人は、不幸を感じやすいということになる。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
幸せそうな人って、いつもニコニコしていて「ありがとう」と周りに感謝している人。そういう場面にいつもいる。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
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数十年で人間の知能は劇的に退化(進化)するのだろうか
「最近の親(妊婦)は変なのばっかり…!(あなたはそうじゃないでしょうね?)」と言われても、笑いながら「そういう人もいますよね~困っちゃいますよね~」と返答するしかないし、品定めされているようで気分が良くない。いつの時代も変な人はいるし、数十年かそこらで人間の知能は退化しない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
「最近の親、変なのばっかり」というのは、その親を育てた世代の子育て論が間違っていた、という可能性でもあり。その間違った子育て論で、今の子育て論を否定するのも、なんか滑稽だなあ、と思うなど。
— 志乃@3月末から東京 (@shinoegg) 2017年3月21日
数十年かそこらで、人間の脳みそはガクンと退化しないとして、逆もありえるんだよね。グッと進化もしない。ガラリと変わるとしたら、文化や価値観のほう。「最近のバカ親」も「老害」も、言っていること、やっていることは、きっと大差がない。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
モラルが高いと攻撃的になる!?
例の炎上中の妊婦ブログについて「こんな人のせいで妊婦全体が悪く思われるのが許せない!」と言う方がチラホラいて。気持ちがよく解る。まとめて語る人が、いつまで経ってもいなくなりそうにない現実。でもそれが人間の脳の特性であって。結果「こんなのと一緒にされたくない!」と仲間内で攻撃的に。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
多様性を認め合える社会、どうしたら近づけるのかね…。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
モラルに厳しい人ほど、攻撃的だったりして。なんか色々考えちゃいますわ。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
「こんなのと一緒にされたくない!」というのは、一緒にされる状況を肯定している?
「お前みたいな奴のせいで、私達まで悪く言われるじゃない!!」と主張し、監視し合うのが、良いことだとも思えず。
私はいつも「こんな奴と一緒にされたくない!」と言われる可能性を考えて、発言しなければならない責任を感じている。一番いいのは、「一緒にして考える人がいなくなること」だけど。現実的ではないのかな。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
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根本的な問題は、「発言には気をつけましょう」という話ではない。
多様性を認め合える社会を目指した時に、そういう、みんなの心の奥にあるものをまず何とかしないといけないのかもしれない。「どう受け取られるかを考えて発言しよう」でなく「どんな発言もOKになる社会」を目指したい。 https://t.co/8ZyuD8jW44
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
「みんな違って、みんないい。」が定着しない謎
「みんなちがって、みんないい。」なんて、大昔から言われていることで、それが全く定着していないってことは、定着したらしたで問題があるってことなんだろうなー。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
社会の構造からして、それでうまく回るように出来ていないのかもしれない。
認め合う必要性は?認められたいのは誰?「みんな」って誰?
でー。突き詰めて考えていくとー。「みんなが認め合う社会」というより、「みんなから認められたい」っていう単なる自分の欲望に気づいたりもしてー。自分の意見、自分の存在を肯定するのに、「みんな」なんてどうでもいいよねーっていう話になるよー。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
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でー。そういってもー。日本社会に「息苦しさ」「閉塞感」が重苦しくのりかかってるのも事実でー。そういうのをー。わたしはー。なんとかしたいー。何ができるか分からないけど。子どもを産んで、そう思うようになった。
— 望月志乃🌞ADHDだヨ!全員遅刻 (@shinoegg) 2017年3月21日
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結局のとこ、自分に出来ることは何なのか?
自分を認める力が弱い人間は、他人を認める力も弱い。
他人に対してアレコレともの申したくなったり、自分好みにコントロールしたくなったりするのは、自分と他人の境界線が曖昧ということ。
「自分の方が正しい、自分の感覚に合わせるべきだ」という前提を強固なものにしてしまったら、それこそ「やってくれて当然」と尊大になる人間と、やっていることが同じではないのか。
求めるよりも、与えることが肝心で、やって欲しいことこそ、自分からやってあげることが幸せへの近道だったりもする。
世界のどこかで「妊婦様」が何をどうしようと、世間一般の「妊婦」への風当たりがどうあろうとも、本当は、自分には関係がない。
自分はそうありたくないと思うのであれば、そうしなければいい話で。
日本って「1億総監視社会」だなあと感じることが多々あれど、それを否定するために、仲間を「監視」するのも、本末転倒。
だけど、そんな監視と批判の声も、自浄作用として機能していたりもするんだろう。
色んな人間がいるから、社会が成り立っている。
「みんなちがって、みんないい。」の定着を阻むものの正体
モラルが高い故に、他人の行いを許せない人がいて。
正義感の強さ故に、やたらと攻撃的になってしまう人がいる。
決してそれが悪いということでもなく、「みんな同じで、みんな悪い」ことで、守られるものもある。その「守られるもの」が、多くの人にとって大事で、「みんな一緒で、みんないい」ことで失うものが不安だからこそ、定着しないのかもしれないね。
多様性と秩序、どうにか両立しないものかしら。
「他人がどうあろうと、自分の立場は脅かされない」という確信を、一人一人が持つためには、一体どうしたらいいのかしら。
「みんな」がどうかなんて、きっと関係ない。
たぶん、不安の出所は、「みんな」じゃなくて、自分の中にある。
現場からは、以上です。
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